初秋

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夕食後居間で二日連続行き倒れ?になったため、夜半寝室のエアコンをかけに廊下に出る。

何とも言えない百合の匂いが廊下に漂う。

玄関に飾った百合の匂い。

・・・秋が来たことを思う。


 

「明恵上人」白州正子著が今日届いたことを思い出し、いそいそと寝室に持って上がる。

丁度この夏に同氏が書かれた「西行」を読み以前から興味のあった「明恵上人」を取り寄せた。
 

西行については弘川寺(河内国)で詠んだ辞世の句
 

ねがはくは 花のしたにて 春死なん 
そのきさらぎの 望月の頃  
 
 
や吉野の桜に縁深い事ぐらいしか知りませんでした。

少し前にNHKの大河ドラマ「平清盛」で微妙に西行が出てくる場面がありました。
 

 西行像
 
 
 
西行(1118ー1190)は平安時代末期の武士・僧侶・漂泊の歌人として知られます。

勅撰集(天皇・上皇の名により編集された歌集)に多数入っており新古今集などに多数の歌が入撰。後世に与えた影響は極めて大きいそうです。後鳥羽院・宗祇(連歌師)・芭蕉にいたるまで大きな影響をあたえたそうです。室町時代以降歌人だけであるだけでなく旅にある人間として世間から大きく尊崇されました。「西行物語」にあるような説話や能に「江口」があり長唄に「時雨西行」があり、卑俗な画題として「富士見西行」があり後世への影響力ははかり知れません。(Wikipediaより)
 

 西行法師行状絵詞
 

俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)といい、むかで退治で有名な俵藤太秀郷(たわらとうたひでさと)(平将門の乱を平定)、栄華を極めた奥州藤原氏に続く家系。佐藤氏の領地は紀ノ川の右岸、肥沃な領地でありました。若き頃名門の家系から鳥羽院の警護を担当する北面武士(ほくめんのぶし。院御所の北面の部屋に詰める。君子南面す。)として出仕、又鳥羽院の中宮待賢門院珠子(たいけんもんいんたまこ)の生家の家人もつとめていました。詩歌管弦に堪能で武芸の腕も抜群と将来を嘱望されていました。この頃の詠んだのが

 
伏見過ぎぬ 岡の屋になほ止(とど)まらじ
日野まで行きて 駒試みん
                 (山家集)
 

元気一杯の若武者が、心行くまで乗馬を楽しんでいる様が詠まれています。

義清は親しかった同じく北面武士の佐藤範康の急死により突然出家に踏み切る。一方では自分の仕える鳥羽院の中宮待賢門院(白河法皇が養女として寵愛し、後の法皇の孫鳥羽院の妻となる)への思慕という説もある。鳥羽院は後に藤原得子(美福門院)を寵愛し、待賢門院との子崇徳天皇(実際は白河法皇の胤子)への譲位を迫り、同じく待賢門院は不遇の晩年を送る。これが後の保元の乱へ繋がっていく。

時代はこれまでの天皇を中心とした公卿による政治から武士の行う幕府の世へと移る激動の時でありました。平家の政権獲得までには保元の乱、平治の乱とそれまでの親子、兄弟、友人が敵味方となって戦いました。世の常ならぬこと、人間の我執の恐ろしさを強く意識される時代であったかと思います。そうした乱世を西行は歩みます。平家全盛から源頼朝による伊豆での挙兵、五年後には壇ノ浦での平家の滅亡、1192年には鎌倉幕府が成立と目まぐるしく時代が移っていきました。
 
 待賢門院像
 
 
  
出家した西行は京の近在や各地に庵を編み漂泊しながら、元々重代(じゅうだい。先祖代々の意)の勇士としての「たてだてしさ」を鎮め、自分の暗黒面を見つめながら天性の歌人としての才能を開花させていきました。西行は世間から隠遁したわけではなく歌壇とは一定の距離を保ちながら漂泊を続けました。自分の詠んだ歌を選び二つのグループに分け「歌合」と称し当代歌壇一流の藤原俊成(千載和歌集撰者)、定家(新古今和歌集、小倉百人一首撰者)親子に判詞を乞うたり、紀州高野山に課せられた木材の調達を平家全盛の平清盛(同年齢の北面武士の出)に免除を掛け合ったり、東大寺再建(華厳宗の大本山。平家により焼討ち)の勧進の為奥州に赴く途上鎌倉では源頼朝と一夜、夜を徹して歓談したりしました。(吾妻鏡より)待賢門院を菩提する待賢門院の女房たちとの折に触れての艶やかな歌のやり取りも残っています。後に栂尾山高山寺の高僧になる明恵上人とも明恵十八歳西行七十三歳の折に出会った痕跡があります。明恵上人の伝記(同法の喜海記す)に「西行法師曰く・・・」の記述があります。そこで西行は歌論を真正面から論じたとのくだりがあり史家からは後世書き加えられたとみられております。西行についてはその他諸々伝説があり虚実の間をすり抜けていくところにその魅力があります。

漂泊の地は嵯峨(待賢門院の菩提)、大原野、吉野山、大峰山、熊野、鴫立沢(湘南)、奥州、江口(天王寺)、高野山、讃岐(崇徳院の菩提)、筑紫の国二見などにおよびました。
 

東海道の小夜の中山で詠んだ歌
 

あずまのかたへ、あひしたる人のもとへまかりけるに、
さやの中山見しことの昔になりたりける、思出られて

年たけて 又越ゆべしと 思ひきや
命なりけり さやの中山
 

・・・このとき西行は六十九歳で、四十年以上も前に、初めて小夜の中山を越えた日を憶い出して、はげしく胸にせまるものがあったにあったに違いない。その長い年月の経験が、つもりつもって「命なりけり」の絶唱に凝縮したのであって、この歌の普遍的な美しさは、万人に共通する思いを平明な詞で言い流したところにあると思う・・・(「西行」白州正子著)
 
 
東の方へ修行(すぎやう)し侍りけるに、富士山をよめる

風になびく 富士の煙(けぶり)の 空に消えて
ゆくえも知らぬ わが思ひかな
 

・・・この明澄でなだらかな調べこそ、西行が一生をかけて到達せんとした境地であり、ここにおいて自然と人生は完全な調和を形づくる。万葉集の山部赤人と比べてみるがいい。その大きさと美しさにおいて何の遜色もないばかりか、万葉集以来、脈々と生きつづけてきたやまと歌の魂の軌跡をそこに見る思いがする。西行が恋に悩み、桜に我を忘れ、己が心をもてあましたのも、今となっては無駄なことではなかった。数寄(すき)の世界に没入した人は、数寄によって救われることを得たといえるであろう・・・(「西行」白州正子著)

 
判らないなりに読んでみましたが、数寄(すき)の世界を自由に生き、自分の心を昇華させた武人のように感じました。「空になる心」「虚空の如くなる心」・・・まさにそんな感じでしょうか?
 
 

 
 

 

 

剣山(十勝山脈)

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娘が仕事の関係で帯広におり、夫婦で訪ねて来ました。

ここ数年毎年訪ねております。
 

今回は丁度インターステラテクノロジー社(ホリエモンこと堀江貴文氏が関係している。14人の会社)の小型ロケットMOMO初号機の打ち上げがあり、娘が見学の切符(有償)を取ってくれました。帯広から南へ車で1.5H位かかる大樹町で朝500~800の間での打ち上げとのことでした。HPを見ますと「小型で低価格のロケット=ロケット業界のスーパーカブ」を目指すとのことでした。

朝230に帯広を出発し400に到着。多くの方々が楽しみにお見えになっておりました。

別途パブリックビューイングがあり、ちょっとした十勝地方の町興しの感じでした。

発射台から4km離れた高台の丘陵地が見学場所でした。

結構寒いが雲もなく発射陽より。

「Go/NoGoの判断の結果、Go」のアナウンスに場内は安堵の声。

620発射のアナウンスがあり、カウントダウンが始まりました。

当方は一生懸命iPad miniの動画のリハーサルを行う。

途中で液体酸素注入のトラブルがあり「カウントダウン ホールド」のアナウンスがありました。リカバリーを行い再度820に発射のアナウンス。

750に「NoGo」のアナウンス。低温によるバッテリーの電圧低下による液体酸素タンクバルブの不具合だそうです。

次の発射Windowは1020-1230との事。

諦めて芽室町の剣山(1205m)へ向かいました。
 
 
帯広から西へ40分位で登山口の剣山神社に到着。

剣山神社にお参りして登山カードを記入して1020に山道を歩き出す。

緩やかな登りが続く。

・・・重大なことに気づく。。

「カラ~ン♪カラ~ン♪」

すれ違う方々は皆さんクマ除けの鈴をつけておられる。。

「あ~~俺等熊に食べられるんやろか・・・。。。」

・・・一部鈴をつけてられない方もおられ気を取り直して歩く、歩く。

時折、可愛らしい花々も目を楽しませてくれる。


 
 
途中から急な登山道に入る。

ストックを持ってきたが使わず、手袋をした手で石や木の枝、根っこに掴まりながら登る。

ロープに掴まるところもある。

 
 
1時間半位で稜線に出る。(一の森)

暫し小休止して稜線を歩く。

順次不動岩、二の森、三の森等々越えていく。

 
 
いよいよ頂上が見えてくる。

岩がそそり立つようで険しさを感じる。

途中すれ違うサングラス姿の年配のカップルは二人ともヘルメットを被っておられる。

すれ違う女性二人の方に

「これから二ヶ所危ないところありますからね(微笑)」

と声をかけられる。

 
 

いよいよ梯子のかかった岩場を登る。

梯子の下は千尋の谷。。

・・・ロープに掴まりながらハーケンで横向けに固定された梯子の上をトラバースして、梯子を登る。

此処で梯子を下りてくる中学生と父親に出くわす。

慎重に息子さんが降りてきて父親も次ぎに慎重に降りてこられた。

挨拶をしてすれ違う。

 
 
山頂前にも梯子があり鎖に掴まりながら登る。


 
 
やっと山頂に到着。

二人いるのがやっとの岩の頂。

十勝平野が望める。

時計を見ると1250。約2時間半で登ってきた。

 
 
山頂を降りて眺望の良いところでおにぎりを食べ一目散に降りる。

稜線から斜面を降りかけると先ほどの中学生と父親の親子が立ち止まっている。

「?」

・・・えらく早く追いついたので怪訝に思う?

挨拶して追い越して、斜面を降りていく。
 

途中家内に追いついて声をかけられる。

「息子さん、足をくじいちゃったんやて・・・。」

そのまま降りていく。
 

・・・・登りかけにすれ違った折にお父さんが運動靴であったのを思い出す。

息子さんも運動靴かも?

くるぶし固定をしないので挫きやすい・・・。

・・・歩いているうちに疑念がこみ上げてくる・・・。

「・・・ストックを持って行ってあげた方が松葉杖みたいに降りやすいのでは・・?」

「・・・もう大分降りて来たので、又登っていくの大変やし・・・。。」

少し葛藤しながら降りていく。

 
・・・「う~ん。」

踵を返して登っていく。

少し登って耳を澄ます。

何回か繰り返す。
 

中学生とおぼしき声が聞こえてくる。

「足挫いちゃったんやったら、ストック使ってですか?」

「僕は大丈夫。むしろパパの方がいるかも?」

「パパ、ストック使う?」

お父さんも足を挫いておられようでしたが、笑顔で辞退された。
 

(私との距離もあんまり離れてなかったので少し安心して)先におりかける。

後ろから

「パパ!頑張れ~!」

の声が何回も聞こえてくる。


 
 
無事1510に剣山神社に帰還。往復4時間半くらいか。

登山カードに下山時刻を書いて剣山神社に無事のお礼のお参りをした。その後、芽室町駅前のモール温泉「鳳の湯」に向かう。(泥炭などから出る湯のため植物起源の有機質を多く含む)湯量も多く気持ちよかった。

芽室町は高等学校スキー部の恩師の郷里。

芽室町の中学校時代の遠足で剣山は登られたのこと。(直前にわざわざその旨の手紙を頂く。)

恩師の郷里で山登りと温泉とは感慨深かったです。

 
 

大暑

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早朝姫路市の飾磨区に向かう。

電材会社様の営業用倉庫の地鎮祭でした。

二方道路のほれぼれするような立地で皆で機嫌良くお祓いをしました。

目の前には大手家電メーカーP社の巨大工場が臨まれる。

近在の恵美酒宮(えびすぐう)天満神社様にお祓いをして頂きました。

菅原道真公が祭神だそうです。

宮司様の黄色の装束が強い夏の陽射しの中で鮮やかでした。


 
 
 
昼頃には会社に帰りました。

午後強い雨が降りました。梅雨明けに雨が多い気がします。

夕刻にめがけて綾部方面のお客様の処へ挨拶に上がりました。

上林の奥の故屋岡という集落です。

会社から40数キロありほぼ福井県堺です。

弊社の先代が昭和28年の水害の折に集落へ入って災害復旧工事に従事した場所です。

道中あまごや鮎の釣りの注意看板が見られる。


 

お客様のお宅に上がると奥様がおられてご挨拶をさせて頂く。弊社で数回リフォーム工事をして頂きました。

前回も一度ご挨拶に上がっている。

昭和28年の水害の折に弊社の先代がこの集落に入らせて頂き河川の蛇篭工事をした旨をお話ししました。

「・・・家の前は皆蛇篭ですよ。家の前が水でいっぱいになり70年生きてきて一番怖い目をしました。」

丁度弊社の創業65年の社史に故屋岡や前の河川の古和木川の工事の写真が入っているので社史を送らせて頂くとお伝えしてお別れしました。
 


 

 
 
丁度行く前に母の処に寄る用事があり、雨が小降りになり「今から綾部の故屋岡行ってくるわ・・・。」と話しますと

若い頃に父と上林の故屋岡に入っていた母は

「故屋岡は綾部の一番奥や。あの頃のことを昨日のことのように思い出すわ。」

と私と歩きながら前を向いて驚くほど若々しいハリのある声で言いました。

若い頃の記憶は声も若返らせるのでしょうか?

 
 
・・・帰りに上林から小さな峠を越えて渕垣を通って七百石のお客様のお宅にも寄りました。

以前に住宅の離れを建てさせて頂き、今回キッチンを入れさせて頂きました。

少し遅い時間で失礼でしたが寄らせて頂きました。

弊社の退職されたIさんの友人であられるご両親、ご本人様三人で外に出て頂き見送って頂きました。

「上がってもろたらええのですけど・・・。」
 
 
多くの皆様につくづくお世話になっております。
 
 
 
 
こんこんと 水は流れて 花菖蒲  
                臼田亜浪

若葉の頃

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連休の一日家内と春日町の三尾山(586m)に登ってきました。

舞鶴若狭道の春日インターを過ぎて直線を過ぎ登り勾配の前に見えてくる岩山です。

多紀連山の一峰で春先は山中に点在するコブシや山桜の美しい山です。

春日町の栗柄峠に向かう道の東中の処に「三尾山登山口」の看板が上がっていました。

ルートはこんな感じです。

高速道路の高架下の処に車を止めて山道に向かう。

軽トラックが走れる程度のつづら折りの山道が途中まで続く。
 
 

・・・何という花でしょうか?


 
 
 

1時間ほどで佐中峠に到着。

これより左折して登山道に入る。

「此処より熟練者」の表示に緊張が走る・・・。

新緑の楓(かえで)が美しい。

森林浴のようで心地良い。

20分ほどで稜線にでる。

稜線を左に曲がり三尾山山頂に向かう。

岩場の登りもあり、はいつくばって登る。

ようよう山頂に到着。

眺望が素晴らしい。

山頂で小野市から登山に見えた70歳ぐらいの方と暫しお話しをする。

69歳から急に山に登りたくなり、現在「兵庫百名山」を踏破中との事。

丁度我々が奈良の山辺の道を歩いた頃に吉野の桜を見に行って来られたそう。

人で人で・・・三分間のロープウェイに乗るのに一時間半待たれたとの事。。

キセルで美味しそうに煙草を吸われる。

おにぎりを食べてお別れして稜線を1時間ほど縦走する。

途中硯岩を越える。

鏡峠(425m)に到着して一服。

だらだら坂を30分余り下りると麓の集落についた。

それからリフォームのお得意様のお宅の前を通りながら高架下のスタート地点に1時間ほどで到着。

都合4時間程気持ち良い汗を流しました。


 
 

 
 
・・・帰宅後早い時間から七輪で炭をおこして庭というかお勝手でBBQ。

・・・二人でまったりと夕食。

炭で焼く軽く干したニシンが美味。

月も出てきて今宵も気になる声が聞こえてくる・・・。

「ホッホー♪・・・ホッホー♪・・・」

どうも梟(ふくろう)の様な気がする・・。

iPadで調べると「アオバズク」(ふくろうの一種)でした。

・・・のんびりと夜は更けていきました。

大和は くにのまほろば

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桜の季節、家内と思い立って奈良の山辺の道(やまのべのみち)を歩いてきました。

大和の古道で奈良盆地の東の三輪山・二上山などを望む山裾を縫うようにして進む道です。

道々には石上神宮や崇神天皇陵や景行天皇陵などの古墳、桧原神社、大神神社(三輪山そのものがご神体)などがあります。

春の花々に囲まれどこか懐かしい日本の景色を楽しみながら歩きました。

近鉄天理駅から近鉄桜井駅まで都合16km約5時間半の行程でした。

京都から近鉄電車で1時間20分天理駅に着きます。

天理教の教団本部の偉容を過ぎ石上神宮からのスタートになります。

石畳の道もありました。集落や丘陵を縫うように道が続きます。

要所の角に案内板が設置されています。

道々も混んでなく思い思いのグループで歩いておられました。早朝福知山を出た時は雨模様でしたが天理駅では雨が上がり気持ちよく歩けました。
 
 

 
帰りは京都の東寺に寄り夜桜の拝観をしてきました。大変な行列で挫けそうになりましたが、思いの外行列が早く進み境内に入れました。ライトアップされた桜と五重塔の偉容と大きな仏像群に圧倒されました。

「・・・三十三軒堂行ったことある?仏像見たら背中がぞくっとするよ。」の声。

機会があれば見に行きたいと思います。

 
 
 
大和は 国のまほろば  たたなずく 青垣こもれる 大和し 美し
                        (倭健命 ヤマトタケル)