山笑ふ

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新緑の佳き季節となりました。

山も新緑が一気に繁りはじめ自然の営みの壮大さを感じます。

生前先代が私の妻に「◯◯さん、『この時期になったら山が笑いだすんやで・・』」と車中で言っていたことを思い出します。
 
 





 

社内のさまざまな植え込みも一度に咲き始めました。
 
 

 
 
 
・・連休前に少し困った事がありました。
 


 

自宅の屋根の下にひよのような鳥が巣を作り始めました。

慌てて掃除をしてネットを張りました。

数日後やはり隙間があったみたいで横の狭い隙間からせっせと巣作りを続行していました。
 
 


 

再度隙間を閉じるべくベランダに上がって片付けやら網の追加工事を始めましたら、つがいらしきひよ2匹が見守る中での作業となりました。
 


 

これは・・・流石にやりにくかったです。。
 

 
 
新年度になりまして、目まぐるしくお引き渡しやご契約・着工しています。
 

南山城村のお茶工場海津市(岐阜県)の工場神戸市の事務所兼倉庫
 

地鎮祭の前泊で岐阜羽島駅前に宿泊しました。
 

 

 

 
流石のN君は鋭く準備をしていました。苅初の儀(カリソメノギ)の草でした(神事で設計者が盛砂の上に草を挿したものを鎌で狩る所作をする)。以前に某町(愛知県)で地鎮祭をした折は前日に竹を切って持参し現場の横の小川に一晩つけていた事がありましたw

N君に「座布団1枚」ですね♪

 

春がそこまで・・。

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 過日、大阪の京橋にある山王美術館に行ってきました。大きなホテルチェーンの経営者が蒐集された日本画や洋画を見ることができました。美術館の横にあるロココ調?のホテルは以前弊社のF君が結婚式を挙げたホテルでした。当日のイベントは「エコール・ド・パリ展」でした。

 思っている以上にコレクションが充実しており、鑑賞者も多くなくゆっくりと観ることが出来ました。横山大観の絵やキスリングの絵が良かったです。帰りにミュージアムショップの横に簡単な休憩スペースがあり無償で珈琲を飲むことが出来ました。入場料も安価で申し訳ないような気分でした。
 
 その後北浜にある適塾に行ってきました。蘭学者であり蘭方医学を学んだ緒方洪庵の私塾です。天然痘の治療を日本で先駆けて行いました。適塾では全国から集まった多くの若者に蘭学を教えました。適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出しました。近所のお客様にご挨拶をした帰りに適塾の前を通り「行ってみよう」と思った次第です。


『虎狼痢治準』安政5年(1858年)のコレラ流行時に西洋の医書を参考に書かれた治療手引き書。医師に百冊無料配布。
『病学通論』日本最初の病理学書(Wikipediaより)

 洪庵の私塾・適塾がどんなところかと言いますと塾頭を務めた福沢諭吉の「福翁自伝」の中に生き生きと描かれています。

「塾生の勉強」・・学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出るものはなかろうと思われるその一例を申せば私が安政三年の三月に、熱病を煩うて幸い全快に及んだが、病中は括り枕で、座布団か何かを括って枕にしていたが、追々元の体に回復してきたところで、ただの枕をしてみたいと思い・・・、枕がない、どんなに捜してもないと言うので、ふと思いついた。これまで倉屋敷に一年ばかり居たが、ついぞ枕をした事がない、と言うのは時は何時でも構わぬ、殆んど昼夜の区別はない、日が暮れてから寝ようとは思わず、しきりに書を読んでいる。読書に草臥れて眠くなってくれば、机の上に突っ伏して眠るか、あるいは床間の床側を枕にして眠るか、ついぞ本当に布団を敷いて夜具をかけて枕をして眠るなどと言うことはただの一度もした事がない・・これは私一人が別段勉強生でも何でもない、同窓生は大抵みなそんなもので、およそ勉強ということについては、実にこの上為しようはないというほどに勉強をしました。

「料理茶屋のものを盗む」・・緒方の書生は本当に万引きをしていたその万引きは呉服店で反物なんと念の入ったことではない、料理茶屋ので飲んだ帰りに、猪口だの小皿だの、いろいろ手頃な品をそっと盗んで来るような万引きである。同窓生互いにそれを手柄のようにしているから送別会などという大会の時には獲物も多い・・「君たちがそんな半端も物を挙げてくるのはまだ拙い。俺の獲物を拝見し給え」・・。

「難波橋から小皿を投ず」・・夜十時過ぎになって「嗚呼飲みたい」と一人が言うと「僕もそうだ」というものが、すぐ四、五人できた。ところがちゃんと門限があって出ることができぬから、当直の門番を脅迫して、無理に開けさして、鍋島の浜と言うの葦簀張でまずいけれども、芋蛸汁か何かで安い酒を飲んで、帰りに例の通りに小皿を五、六枚あげてきた。夜十二時過ぎでもあったか、難波橋の上に来たら、下流の方で茶船に乗って、ジャラ〃三味線を鳴らして騒いでるやつがある。「あんなことをしてやがる。こっちは百五十かそこらの金を見つけ出して、ようやく一盃を飲んで帰るところだ。忌々しい奴らだ。あんな奴があるから、此方等が貧乏するのだ」と言い様、私の持ってる小皿をニ、三枚投げつけたら、一番しまいの一枚で三味線の音がぷっつりやんだ。その時は急いで逃げたから・・・。塾の一書生が北の新地に行ってどこかの席で芸者に逢うた時に芸者が「世の中には酷い奴もある。橋の上からお皿を投げて、ちょうど私の三味線のにあたって裏表の皮を打ち抜きましたが、本当に危ないことでまずまず怪我をせんのが幸せでした・・」・・私どもはそれを聞いて、下手人にはちゃんと覚えがある。けれども、言えば面倒だから、その同窓の書生にもその時は隠しておいた。

「桃山から帰って火事場に働く」・・塾中兎角貧生が多いので、料理茶屋に行って旨い魚を買う事はまず難しい。夜になると天神橋か天満橋の橋詰に魚市が立つ。まぁいわば魚の残物のようなもので、値が安い。それを買ってきて手水盥で洗って、机の壊れたのか何かをまな板にして、小柄を持って揃えるような事は毎度やっていたが、私は兼ねて手の先が利いてるから、いつでも魚洗いの役目が回っていた。これは三月桃の花の時節で、大阪の城の東に桃山と言うところがあって、盛りだと言うから花見に行こうと相談ができた・・、例の通り、前の晩に魚の残物を買ってきて、その他氷豆腐だの、野菜物だの整えて、朝早くから起きて、早々に揃えて、それを折りか何かに詰めて、それから酒を買って、およそ十五人も同伴があったろう、弁当を順持ちにして桃山に行って、散々飲み食いいい加減になってるその時に下ふと西の方を見ると、大阪の南に当たって大火事だ・・・ちょうどその日に長与専斎が道頓堀の芝居を見に行ってる。我々花火連中は何も大阪の火事に利害を感じる事は無いから、焼けても焼けるでもどうにでも構わないけど、長与が行っている。もしや長与は焼け死にはせぬか・・・、とても探すわけにはいかぬ。まもなく、日が暮れて夜になった。もう夜になっては、長与の事は仕方がない。「家事を見物しようじゃないか」と言って、その火事の中へどんどん入っていった。ところが荷物を片付けるので大騒ぎ。それからその荷物を運んでやろうと言うので、夜具か何の包みか、風呂敷を担いだり、箪笥を担いだり、なかなか働いて、だんだん進んでいくと、その時大阪では、焼ける家の柱に綱をつけて、家を引き倒すと言うことがある。その綱を引っ張ってくれと言う。「よし来た」とその綱を引っ張る。ところが、握り飯を食わせる、酒を飲ませる。如何も堪えられぬ面白い話だ。散々酒を飲み握り飯を食って、八時ごろにもなりましたろう。それからいちど塾に帰った。ところがまだ焼けている。「もう一度行こうではないか」とまた出かけた・・。

「工芸技術に熱心」・・今日のように全て工芸技術の種というものがなかった。蒸気機関などは日本国中で見ようと言ってもありはせぬ。科学の道具にせよ、どこにも揃ったものはありそうにもしない。揃ったものどころではない、不完全な物もありせぬ。けれども、そういう中にいながら、器械のことにせよ、科学のことにせよ大体の道理は知っているから、どうかして実地を試みたいものだと言うので、原書を見てその図を写して似寄りのものを揃えるということについてはなかなか骨を降りました・・・それから今度は碯砂(ドウシャ)製造の野心を起こして、まず第一の必要は塩酸アンモニアであるが、これはもちろん薬店にある品物ではない。そのアンモニアを作るには、どうするかと言えば、骨ー骨よりももっと世話なしにできるのは、鼈甲屋などに馬爪の削屑がいくらでもあって、只でくれる。肥料にするかせぬか、わからぬが行きさえすればくれるから、それをどっさりもらってきて、徳利に入れて、徳利の外に土を塗り、また素焼きの大きな瓶を買って七輪にして、沢山火を起こし、その瓶の中に三本も四本も徳利を入れて、特に徳利の口には瀬戸物の管をつけて、瓶の外に出すなどいろいろ趣向して、どしどし火を仰ぎ立てると、菅の先からたらたら液が出てくる。すなわち、これがアンモニアである。至極うまく取れる事は取れるが、ここに難渋はその臭気だ。臭いも臭くないも、何とも言いようがない。あの馬爪、あんな骨類を徳利に入れて、蒸し焼きにするのであるから、実に鼻持ちならぬ。それを緒方の塾の庭の狭い所でやるのであるから、奥でももってたまらぬ。奥で堪らぬばかりではない。さすがの乱暴書生も、これには辟易してとてもいられない。夕方湯屋に行くと、着物が臭くって犬が吠えると言うわけ。例えば、裸でやっても、身体が臭いと言うて人に嫌がられる。もちろん製造の本人ではどうでもこうでも碯砂と言うものをこしらえてみましょうと言う熱心があるから、臭いのは何も構わず、頻りに試みてみるけど、なにぶん周辺の者が喧しい。下男下女までも胸が悪くてご飯が食べれないと訴える・・・鶴田仙庵らは思い切ったが、ニ、三の人は尚遣った。どうしたかと言うと、淀川の一番粗末な船を借りて、船頭を一人雇って、その船に例の瓶の七輪を積み込んで舟中で、今の通りの匂いの仕事をやるわ宜いが、やっぱり煙が立って、風が吹くと、その煙が陸の方に吹き付けられるので、陸の方で喧しく言う。喧しく言えば、船を動かして、川を登ったり、降ったり、川上の天神橋、天満橋から、ずっと下の玉江橋の辺まで、上下に逃げて回ってやったことがある・・・。

「自身、自力の研究」・・さて、その写本の物理書医書の解読をどうするかと言うに、講釈の為手もなければ、読んで聞かしてるくれる人もない。内緒で教えることも聞くことも、書生間の恥辱として、万々一もこれを犯すものはない。ただ一人でもってそれを読み砕かねばならぬ。読み砕くには、文典を土台にして辞書を頼るほかはに道はない。その辞書と言うものは、ここにズーフと言う写本の辞書が塾に一部ある。これはなかなか大部なもので、日本の紙でおよそ三千枚ある。これを一部こしらえると言う事は、なかなか大きな騒ぎで容易にできたものではない。これは昔、長崎の出島に在留していたオランドのドクトル・ズーフと言う人がハルマと言うドイツオランダ対訳の原書の字引を翻訳したもので、蘭学社会唯一の宝書と崇められ、それを日本人が伝写して、緒方の塾中にもたった一部しかないから、三人も四人もズーフの周囲に寄り合って見ていた・・・ズーフでわからなければウェーランドを見る。ところが初学の間はウェーランドを見てもわかる気遣いは無い。それ故、便るところはただズーフのみ。会読は、十六とか三八とか大抵日が極まっていて、いよいよ明日が会読だと言うその場は、いかな懶惰生でも大抵眠る事は無い。ズーフと言う字引のある部屋に五人も六人も群をなして、無言で地引を引きつつ勉強している。それから翌朝の会読になる。解読をするも籤でもって、ここからここまでは誰と決めてする。会頭はもちろん原書を持っているので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割合られたところを順々に講じて、もしその人ができなければ次に回す・・。

「大阪書生の特色」・・江戸と大阪とおのずから事情が違っている。江戸の方では、開国の初とは言いながら、幕府を始め、諸大名の屋敷というものがあって、西洋の新技術を求めることが広く、且つ急である。したがって、いささかでも洋書を解すことのできるものを雇うとか、あるいは翻訳をさせれば、その返礼に金を与えるとか言うなことで、書生輩がおのずから生計の道に近い。ごく都合の良いものになれば、大名に抱えられて、昨日までの書生が今日は何百石の侍になった言うことも稀にはあった。それに引き換えて、大阪はまるで町人の世界で、何も武家と言うものは無い。したがって、砲術をやろうと言うものもなければ、原書を問い調べようと言うものもあり。それ故、緒方の書生が幾年勉強して何ほど偉い学者になっても、とんと実際の仕事に縁がない。すなわち、衣食に縁がない。縁がないから、縁を求める言うことにも思い寄らぬので、しからば何のために苦学するかと言えば、一寸と説明は無い。頓と自分の身体はどうなるであろうかと考えたこともなければ、名を求める気もない。名を求めるどころか、蘭学諸生と言えば、世間に悪く言われるばかりで、既に己に焼けになっている。ただ昼夜苦しんで六しい原書を読んで申し面白がっているようなもので、実に訳のわからぬ身の有り様とは申しながら、一方進めて、当時の書生の心の底を叩いてみれば、おのずから楽しみがある。これを一言すれば➖西洋日進の書を読む事は、日本国中の人にできないことだ、自分たちの仲間に限って、このようなことができる、貧乏しても難渋をしても、粗衣粗食、一見見る影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なる事は、王侯貴人も眼下に見下すと言う気位で、ただ六かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽という境遇であったと思われる。例えばこの薬は何に効くか知らぬけれども、自分たちより他にこんな苦い薬をよく飲むものはなかろうと言う見識で、病の在るところにも問わずに、ただ苦ければ、もっと飲んでやる位の血気であったに違いない・・・
                            「新訂 福翁自伝」福沢諭吉著 より

・・以前此本を読んで話が面白く抱腹絶倒しました。それと江戸時代末期にこんなにも合理的な人が居たのかと感心する事しきりでした。福沢諭吉の書いた当時のベストセラー「学問のすゞめ」は初版(明治5年)で20万部、最終的には300万部売れたそうです。
 

 
(さらに…)

立春大吉

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立春になり、強い寒波がやって来ました。

初めて雪らしい雪が積もりました。

初日は玄関に可愛い雪だるまが⛄️登場しました。

翌日はしっかりした雪だるま⛄️登場しました。

東京に在住の娘の生後4ヶ月のちーちゃんに似た雪だるま⛄️らしいです。

 
 
最近Duolingoを始めました。

スマートホンで語学をゲーム感覚で覚えていくやつです。

英語をやっています。(93カ国語あるそうです)

現在サファイアリーグに参戦しています。

やり出すと結構面白いですが、上のリーグに上がっていくためには30人中何位に入ってないと上がれない為急かされる感じです。ブロンズ→シルバー→ゴールド→サファイアとやって来ましたがサファイヤになって急に競い合う相手がレベルが高くなり、夜の間(時差がある為?)に追い抜かれる感じです。

簡単な日常会話を何回も何回も繰り返して覚えていく感じです。
  
  

 
 
それと寝床で「蠣崎波響の生涯」中村真一郎著を読んでいます。同じ著者の「木村蒹葭堂のサロン」も一緒に購入しました。

前回のブログの中で「江戸時代の上方の成熟した文化」なるものを書きましたがその延長線上でこの本が出て来ました。蠣崎波響は松前藩の家老でありながら当時の前衛詩人というべき存在であった六如正人の直弟子であり、エキゾチックな南蘋派(なんぴんは)の画人でもありました。波響の時代、松前藩はアイヌ諸族がロシアの南下政策の煽動をうけ、しばしば反乱を引きおこし、その難局に対処できない松前藩を幕府が取り潰しを考えていました。波響はそのような宿命に立ち向かい、藩の行方と300余名の藩士の生活の全責任を負い、そのうえでアイヌ風俗を徹底して絵に描きました。(松岡正剛千夜千冊「木村蒹葭堂のサロン」※)

蠣崎波響は京や上方、江戸との儒者や画壇との交流が常にありました。上方のコーディネーターでもあった木村蒹葭堂とも面識がありました。

・・当時の前衛詩人六如正人が書いた波響との出会いが出て来ます。
「波響楼ニ寄題ス」という長詩です。
「年甫(はじ)メテ強壮、風流温雅」の語が出てくる。
「書ヲ読ミ、詩ヲ能クシ、最モ絵事ニ長ズ。当世、画ヲ以ッテ家ニ名ヅクル者ト雖モ、能ク及ブ莫キ也」
又、「(松前城下での)居ル処ニ楼アリ。前、大洋ニ臨ミ、名ヅクル波響ヲ以ッテス。因ッテ亦、自ラ号トス、辛亥(寛政三年)ノ夏、京師ニ上リ、僑寓数ヶ月。予、愈々歓待ヲ得、遂ニ忘年ノ交ヲ結ブ」
老僧は三十歳近くの年下に若者にぞっこんとなります。

又六如正人の詩の中に
「池大雅水亭夏景」に
「先生、睡起、正ニ酒ヲ思ヒ、市、遠クシテ、阿奚(召使)故(コトサラ)未ダ還ラズ」
大雅のアトリエの閑静で不便な郊外にあった有様と主人の酒好きな様とを歌って、その親交ぶりを思わせます。

ポツポツと読んでいますが江戸時代の儒者や俳人画壇の行き来や豊かな「知のネットワーク」といったものが感じられます。著者中村真一郎がその時代の木版文書を三千冊読破したと書かれていますが丹念に漢詩を解説されており大変な力作と感じております。購入時は漢詩が多く入っており、読み進めるかな?と危ぶみましたがそれなりに読み進めております。

・・江戸時代の人のことを書いた本を思い出しますと以前江戸時代の弘前藩の医官である「渋江抽斎」※森鴎外著をこのブログで書いたことがありました。森鴎外も軍医総監であり先人の医書を読む好事家(ヂレッタント)でありました。渋江抽斎も同じく医官であり先人の医書を読むことに精力を傾けた方でありました。そうした関係から鷗外も医書を読み進める中で渋江抽斎の蔵書である「弘前医官渋江氏蔵書記」印が何冊もあり、渋江抽斎に興味をもち渋江抽斎が歩んだ道を辿っていきました。

「・・わたくしはまたこういう事も思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のような哲学方面の書をも読み歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。そのあとが頗(すこぶ)るわたしと相似ている。ただその相殊(あいこと)なる所は、古今時を異(こと)にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今大きい差別(しゃべつ)がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁なヂレッタンチスムの境界を脱することが出来ない。わたくしは抽斎を視て忸怩(じくじ)たらざるを得ない。
 抽斎はわたしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたしの比(たぐい)ではなかった。廻(はるか)にわたくしに優(まさ)った済勝(せいしょう)の具を有していた。抽斎はわたしの畏敬すべき人である。」渋江抽斎 森鴎外著より

森鴎外に史伝三部作があります。「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北條霞亭」です。中村真一郎も晩年に「頼山陽の時代」「蠣崎波響の生涯」「木村蒹葭堂のサロン」を書き上げ三冊目が絶筆となりました。
同じく先人への敬慕、江戸期の知識人への尊敬があったのではないかと感じます。

※太字 リンクです。

初春

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(舞台の写真は日本経済新聞2025/1/17より)

初春となりました。本年も宜しくお願い申し上げます。

お正月の3日は大阪の国立文楽劇場に文楽(人形浄瑠璃)を観に行ってきました。バスで難波OCATまで行けるのでとても楽ちんでした。

10時から初舞台のため、鏡割りがあったり振る舞い酒がありました。待ち時間にはお茶も用意されていました。お茶碗には文楽の人形が描かれていました。

出し物は

第1部 新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)
 座摩社の段/野崎村の段

第2部 仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)
 八段目 道行旅路の嫁入/九段目 雪転しの段/山科閑居の段

でした。

なんせ1100から休憩を挟みながら1700迄で椅子に長時間座りなかなかハードでした。事前にあらすじのも目を通しておく必要がありました。但し舞台上部には字幕が映し出され理解することができました。

人形の動きや太夫・三味線の語りはそれはそれは素晴らしいものがありました。人形はまるで生きているが如く人間の情念を描き出されていました。

今後近松門左衛門の「曽根崎心中」(文字を押すとリンクします)や「出世景清」「心中天網島」をぜひ観てみたいと思います。

実は以前に「心中天網島」の一部(遅れて行った)を見る機会がありました。どろどろした人間の情念が描かれており、日本にこんな奥の深い物語があったのかととても驚いたことがありました。

文楽に興味を持ったきっかけはずっと以前に読んだ「この国のかたち」司馬遼太郎著の中に

8、日本の「近代」
忠臣蔵 の芝居、講釈 播州浅野家の若殿、高家(儀典課長)の吉良にいじめられる。浅野家大慌てで江戸中の畳屋に頼んで間に合わせる 江戸経済の実力
赤穂 赤穂塩 全国に流通
識字率 世界一 農村、町方の子供 奉公した時に帳つけ
大坂、江戸 劇場が栄え相撲が常態的に興行 大衆の木戸銭
商品経済の世界 義によって赤穂塩買わない × 朱子学の思弁性(純粋な論理的思考だけで物事を認識)

「中世」 人々はぶどうの房、一族ぶら下がる → 「近代」 商品経済の発達 全て個人が矢面

徳川幕府 朱子学を官学 但し多様な思想 荻生徂徠、伊藤仁斎 空論性を攻撃
徂徠における実証主義 「朱子学は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」
江戸期の思想に好影響

荻生徂徠 中国の儒教学説信ぜず、モノ、コトを合理的に見直す。新しい儒教学説
安藤昌益 太平洋航路をつたい南部藩に入った商品経済が金貸しを産む。
自給自足の農民が落ちぶれていく。社会の仕組みを腑分け。
三浦梅園 自然の中に条理「法則を見出す」弁証法的論理学

富永仲基(大坂醤油問屋の息子) 仏教を人文科学的な冷徹な態度で考察
「法華経、阿弥陀経」などの大乗仏教 釈迦以後五百年経って誰かの創作(出定後語)
山片蟠桃(やまがたばんどう)大坂の大名金融問屋番頭
中世以来の固定概念 モノ、コト科学的検証、細片まで秤にかけた。一切の神秘主義排し、鬼神は存在しない無鬼論。「夢の代(しろ)」
(注:富永・山片とも大坂町人・大坂商人の学塾である懐徳堂で朱子学や儒学を学ぶ。富永の父は懐徳塾・後の大阪大学の前身、の出資者の一人)

10、浄瑠璃記
高田屋嘉兵衛
千島沖露軍艦に拉致
運命を甘受、主人公へ。
露人 「魂の輝き」を感じる。将官として礼遇
リコルド少佐 救出途中の日本船 高田屋嘉兵衛
拉致を奇貨として日露の紛争解決をはかる。
一私人として日露外交
露 操船技術、人の明るさに魅了
嘉兵衛 浄瑠璃本 身辺から離さない 詩藻与えただけでなく心胆を練らせた
曽根崎心中 徳兵衛 「あいつも男を磨く奴」
在所から都市に出てきて一人前になるには個人的な修行が必要。個人的な信用。江戸期は町人が男を磨いていた
嘉兵衛 マストに登り脇差を抜いて「イコルツよ(リコルド)、もはやわしの面目はつぶれ、事もおわった。お前の命まではもうしうけぬが、一太刀だけむくいさせよ。その上にて、わしは腹を切るわい。」
劇的行動 血肉の中にある近松の「出世景清」※の景清がそうさせたかもしれない。
江戸期 武士は謡曲、町人は浄瑠璃が嗜み。日本語を磨く。
                       (「この国のかたち」司馬遼太郎著から要約)

(※出世景清  平家滅亡後も生き延びて源頼朝を討ち滅ぼそうとする悪七兵衛景清の苦悩を描く。景清は『平家物語』や能楽、幸若舞でも取り上げられた題材。近松はそこから悲劇的な葛藤をとりだして、人間性豊かなドラマに仕立てた)

のようなことが書かれてあり頭の隅にありました。

また、たまたま読んだ先日亡くなられた松岡正剛氏の千夜千冊に「出定後語」(1806夜)の項に

【上方の異端力】・・・帝塚山学院大学の人間文化学部で教えていたころ、大阪の某所で「関西の知」をあれこれ話してみたことがありました。「上方伝法塾」として、・・・近松の浄瑠璃と蕪村の俳句、清沢満之の改革とプラトン社の出版方針などにまつわる話を順にしたのですが、なかで懐徳堂と適塾、ならびに富永仲基と山片蟠桃(やまがたばんとう)のことを「あれは江戸や京都では生まれません」と強調しておいたものです。
 知の編集にはその土地や風土のトポスと、言葉づかいのクセとが深く関係しています。これを無視しては知や思想の特色はつかめません。「関西の知」にもそこが微妙に投影していて、そこを読みちがえると当たり前の学術観しか手にのこらない、なかでも奈良・近江・京都・摂津(大阪)・播磨(兵庫)・伊勢などの違いはとてもたいせつなもので、たとえば近松(974夜)や西鶴(648夜)や木村蒹葭堂(1129夜)のセンスは大坂でしか生まれない。かれらは大坂の知を活した逸材なのですね。学び方そのものではなく、学びの博め方がちがっているんです。
 五同志の町人たちが基金を出しあった懐徳堂もそのひとつで、とうていほかの地域では誕生しなかった学校です。4代学主の中井竹山、5代の中井履軒のころが絶頂期で、江戸の昌平坂学問所とはまったく異なる人材を輩出しています。『夢の代』を著して格物致知を踏査した山片蟠桃、『三貨図彙』で日本貨幣史にとりくんだ草間直方など、とびきりです。そういう渦中に仲基が登場します・・・
                   (https://1000ya.isis.ne.jp/1806.htmlから引用)

と書かれてありました。

こんな事を読んで二つの文章がひっついてきました。江戸期の成熟した上方の文化に少し興味を持ちました。そんな延長線で文楽をおっかなびっくり見に行った次第。

帰りに難波で食事をして帰ろうと思い遅い便のバスを予約していましたが、ぐったり疲れて早いバスで帰福しました。

丁度江戸時代の希代のメデイアのネットワーカー蔦屋重三郎のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」も始まったので楽しんでみたいと思いますw

ブーケ

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ここのところ社内では結婚、入籍ラッシュです。

ここ1年で記憶では6人入籍しました。

神戸支店3人(1組は社内結婚)、篠山店2人、本社1人とおめでた続きです。

先日は先月入籍したS君が本社に打ち合わせに来ました。

入籍の様子をお聞きしてお祝い🥂をお渡ししました。

簡単なブーケも用意しました。
 
 
2ヶ月ほど前に1日に篠山店の2人にお祝い🥂をお渡しする日がありました。

1名は本社に来る用事があるので本社でお渡しし、もう1名は篠山店でお渡しする予定でした。

出社してもくもくとと頭の中に疑念🤔が湧いてきました・・・。

ご祝儀袋🧧だけでは余りに殺風景・・・だと・・・。

急いで花屋さんに電話して簡単な花束💐を準備していただきました。
 

・・・一つ問題がありました。。

同じ部署の先輩が少し前に入籍していましたが花束💐は渡してなかったのではないかと・・・・。

別室に彼女を呼んで事情を伝えました。

「社長。私の時はアパートに花束💐を送っていただきました❗️」

・・あ〜〜。。

そう言えばそんな事があった。

神戸の二人にも入籍の日に花束💐を送った気がする。

めでたしめでたし🎉

因みに来週は神戸の2人の結婚式にあがります。