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ヨネダ社長ブログ

夢を生きる

2017年11月07日(火)

某日、「明恵上人」白州正子著を読了。

以前に河合隼雄著「明恵 夢を生きる」を読み、この本が割合好きになり自宅の机の横の本棚の特等席に置いてあり、これも改めて読み返しました。
 


 

明恵(みょうえ)は鎌倉時代前期の僧。華厳宗中興の祖とされます。

明恵の生きた時代は、我が国の精神史上、注目すべき時であり、外国から伝えられた仏教が日本人の魂との触れ合いで変貌していく時でありました。法然、親鸞、道元、日蓮などの名僧が次々と現れ、お互いに影響しあったり、批判、攻撃しあったりしてそれぞれの説を築きあげていく時でありました。

明恵は現在の和歌山県有田川町出身。明恵上人・栂尾上人とも呼ばれます。武家の出身で父は平重国。母は紀州有田郡一帯に精力を持っていた湯浅宗重の四女。

九歳に両親と死別し、叔父の上覚の導きにより京の神護寺に入山。熱心に真言や華厳の教えを学ぶ。

十三歳の時に、仏が衆生の救済のために命を捨てたように、自分も虎狼に食われて死のうとして、一人で墓所に行き一夜を明かすが虎狼に食われず残念に思いつつ帰ってきた。

「今ハ十三ナリヌレバ、スデニ老イタリ、死ナムズル事モチカズキヌ」

十六歳の時に上覚について出家し、東大寺戒壇院で具足戒を受け、幼少時よりの念願の僧となる。

十九歳の時より「夢記」記録し始める。五十九歳にいたるまで約四十年にわたって自ら見た夢を記録しました。
 


 

この頃より仏眼尊を本尊として仏眼法を行うようになる。

 


(高山寺蔵)
 

二十三歳の時に紀州白山の峰に草庵を構え、隠遁生活に入る。

当時の僧達が戒を破り、名利を求めて行動するのを見るにつけ、若い明恵は堪らず隠遁生活に入ったと思われる。

僧の剃髪、染衣は驕慢心を避けるためのものであるが、当時の僧は逆に美しく頭を丸めることや衣を派手にすることに心を砕いていた。

二十四歳の明恵は仏陀の考えを踏みにじっていると考え、もはや剃髪着衣は意味を失っていると考え自らの耳を切るという直裁的な行動に出た。

「志堅くして、仏眼如来の御前にして、念誦の次でに、自ら剃刀を取りて右の耳を切る。余りて走り散る血、本尊并にびに仏具・聖教に懸かる。その血、本所未だ失せず。」

耳を切った翌日、文殊菩薩の顕現する夢を明恵は「夢記」に記載。

「一、同廿五日、釈迦大師の御前に於いて夢想観を修す。空中に文殊菩薩現形(げんぎょう)す。金色にして獅子王に坐す。其の長(たけ)、一肘量許(いちりやうばか)り也。」

単純に文殊の事実のみ記載されているが、明恵の耳を切った翌日に文殊菩薩の顕現を体験した感動が伝えられる。

これによって明恵は自分の信仰に自信を得、他の僧たちと離れ、只一人経文を頼りとして、ひたすら内的な世界へ没入していったと思われる。

これにて明恵の青年期は終わり、独り立ちの僧として修行が始まるのであるが、耳の切断と文殊の顕現は、成人となるためのイニシエーション(通過儀礼。割礼、元服、バンジージャンプ等々)の儀式にふさわしいものであった。
 

 

これより後、三十四歳の時に後鳥羽院から高山寺の地を賜い、京に出てくるまでは集中的な内向の時代と思われる。

この間、意味深い夢や夢相を多く得る。

徐々に衆生の救済へ向け外界との接触が多くなる。

内界と外界が一体化していく中で明恵の仏陀を慕う気持ちは、実際の仏陀の生きた地を訪ねようとする決意となる。
 
三十歳の時と三十三歳の時に天竺(印度)への渡航を企てた。

「ワレハ天竺ナドニウマレシカバ、何事モセザラマシ。只、五竺所々ノ御遺跡巡礼シテ、心ユカシテハ、如来ヲミタテマツル心地シテ、学問行モヨモセジトオボユ」(却廃忘記)

春日明神のご宣託により断念。

・・明恵の身内の湯浅宗光の妻が霊物(れいもつ)にとりつかれたのを明恵が祈祷し、懐妊中の宗光の妻と子供の命を霊物である食肉鬼と説得し施餓鬼供養をすることを約し助けた。その後、宗光の妻には春日明神が降霊し「天竺へ渡るべきではない」とのご詮託を与えた。彼女に春日明神が降霊した際には、彼女は左右の手で明恵を横抱きし「糸惜(おし)ク思ヒ奉」ると涙を流し、明恵は声を上げて悲泣した。降霊は不思議な異香を発したのみならず、その手足口に滋淳の甘みを発し、諸人は喜びに堪えず、その手足にある奇異の甘みを舐めた・・・宗光の妻は母性的な像と、明恵の同年輩のペアの中間的存在としての意味を持つものと思われる・・・(本書より要約)
 
 

天竺を思いとどまった時から、明恵は、仏の所に行くも日本の衆生に尽くすも同じであるとの認識を持つようになったと思われる。

丁度そのころに後鳥羽院から高山寺の地を賜うことになり、俗界の接触も増えていった。

三十五歳に院宣により東大寺尊勝院学頭となり、華厳宗の興隆に尽くす。

四十八歳の時には百日余り仏光観の修行をして、多くの好相を得る。

それによって主著となる「華厳宗修禅観照入解脱門義」を著す。

明恵がこの書を完成した時に、このことを全く知らない他人がそれに関する夢をみたとして「行状」に記されている。

明恵の禅房より二町ばかり離れた所にいた発心房という老僧が著書が完成した夜に

「明恵が奉行して一大堂を建立し、大同の前に大門を建て、門から堂に至数段の階段を造った。堂は東に向かい、その中で諸人に話をしており、口中から大光明を放っている。その後、よそから聖教を運び、七人の了角童子がこれを堂内に安置する。」

という夢をみた。

夢に時に現れる共時的な現象の一種と思われる。
 

その翌年承久の乱が起こり京都は騒然となる。明恵は朝廷方の多くの落人や子女をかくまう。北条方の六波羅に明恵は引き立てられるも北条泰時に心服され親交を重ねることになる。

二年後、五十一歳の時に高山寺境内に善妙尼寺を建て、朝廷方貴族の多くの子女を収容する。

戒を守り、一生女性との接触を絶った明恵には多くの女性の尊崇者がおり、夢の中での明恵の女性像が変遷していく。

(性夢も含め女性との夢が集中的に出てきており、外界での明恵の厳しい修行と隠遁生活を経て、自他共に許す高僧としての高山寺での地位を確立した時に内界で強烈なアニマ「男性が持つ全ての女性的な心理学的性質」の布置=コンステレーション※が生じた。)

晩年の明恵は、多くの帰依者を得て講義をする一方、ひたすら隠遁し座禅をする気持ちも失わなかった。

五十九歳で入滅。

最後の言葉は「我、戒を護る中より来たる」

置文(遺書)をしたため、弟子たちに懇ろに後事を託し、さながら涅槃図をみるような見事な最後であった。
 
 
 

 
明恵最初の夢。九歳で親類を離れ高尾山に登り、その当日に夢をみる。

「其の夜、坊に行き着きて、臥したる夢に、死したりし乳母、身肉段々に切られて散在せり。其の苦痛、夥敷見えき。此の女、平生罪深かるべき者なれば、思い合わせられて殊に悲しく、弥能き僧に成りて、彼らが後生をも助くべき由を思ひとり給ひけり」

二回の捨身(虎狼に食われようとした)の不成就後の夢。

「狼二匹来タリテ傍ニソイヰキテ我ヲ食セムト思エル気色アリ、心ニ思ワク、我コノム所ナリ、此ノ身ヲ施セムト思ヒオて汝来タリテ食スベシト云ウ、狼来タリテ食ス、苦痛タエガタケレドモ、我ガナスベキ所ノ所作ナリトオモヒテ是ヲタエ忍ビテ、ミナ食シヲハリヌ、然而シナズト思ヒテ不思議ノ思ヒニ住シテ遍身ニ汗流レテ覚メ了ンヌ」

捨身の夢の中での成就。

その後、明恵は素晴らしい胎内体験をする。

 
仏眼仏母尊と一体になる夢。

「天童が明恵を輿に乗せ、仏眼如来仏眼如来と呼び歩くので、自分はすでに仏眼となったと思う」という夢。

「荒れ果てた家に自分がいて、その下を見ると蛇や毒の虫が無数にいる。そこへ仏眼如来が現れ、自分を抱いてくれたので、恐ろしいところを免れることができた」という夢。

仏眼は仏の目を人格化したものであり、また一切の諸仏の母とも考えられている。ユングによると目は母の子宮であり瞳孔はその中から生まれてくる子供。

明恵は

捨身→胎内体験→再生

のプロセスを経る。

二翅の大孔雀王の夢。

一、夢に金色の二翅の大孔雀王有り。其の身量人身より大きなり。其の頭・尾、倶に雑の宝・瓔珞を以って荘厳せり。遍身より香気薫り満ちて、世界に遍し。二つの鳥、各、遊戯飛行す。瓔珞の中より微妙の大音声を出し、世界に遍し。其の音声に偈を説きて曰はく、「八万四千の法、対治門、皆是、釈尊所説の妙法なり。」人有り、告げて曰はく、「此の鳥、常に霊鷲山に住み、深く無上の大乗を愛楽して世法の染著を遠離す」と云々。鳥、此の偈を説き巳し時、成弁※の手に二巻の経を持つ。一巻の外題には仏眼如来と書き、一巻の外題には釈迦如来と書けり。是は、彼の孔雀より此の経を得たる也と思ふ。成弁、此の偈を聞く時、歓喜の心熾盛也。即ち、「南無釈迦如来、南無釈迦如来」と唱へて、涙を流し感悦す。即ち二巻の経を持ちて歓喜す。夢覚め巳るに、枕の下に涙湛えへりと云々。

「十九歳ノ時、金剛界伝授ス、其ノ後仏眼ヲ本尊トシテ、恒ニ仏眼ノ法ヲ修スル業トス」

「好相、ナラビニ夢想等、種々不思議ノ奇瑞多シ」・・・

 

河合隼雄氏は「明恵 夢を生きる」の中でユング心理学の第一人者の立場から夢の読み方、夢と自己実現の関係、現代人にも共通する人間の夢と現実の世界の関係を紐解きました。河合隼雄氏は湯川秀樹博士(ノーベル物理学賞受賞)や梅原猛氏(哲学者)から明恵の「夢記」の研究を強く勧められ手に取るようになったと書かれています。

河合氏は明恵を研究することによって、日本の仏教の深淵さに気付かれたそうです。
 
 

他方、白州正子氏は能、書画、骨董に造詣が深く、氏独特の美意識で自然の中に没入し気迫に満ちた、強靱な人間の美しい姿を描き出しております。明恵ゆかりの地を訪れ明恵に思いを馳せながら美しい日本語で紀行文として書かれております。
 

 明恵上人樹上座禅像 高山寺蔵
 

・・・春日竜神というお能があります。

栂野の明恵上人が、入唐天竺を志し、暇乞いのため春日神社にお参りすると、一人の翁に出会う。翁はしきりに上人をいさめ、仏在世の時なら渡るもよかろう。が、遺跡を訪ねて何になる。それより日本に止まって、上人を慕う人々を救うべきである。まこと志が深ければ、春日の山も天竺の霊鷲山(りょうじゅさん)と見えてこよう・・・

・・春日明神はそういう単純素朴な能で、難しい箇所など何もない。特別な見所もない。言ってみれば初心者向きの曲などです。・・・ある時梅若実翁が演じるのを見て強い感銘を受けたことがあった。それは今の後シテの場面で、竜神が、説法の座に、沢山の眷属を集める所があり、幕の方を向いて、一々むつかしい名前を読み上げる。むろん、そんなものは一人も現れないのですがそれら大勢のお供を従えた竜神が、「恒者(ごうじゃ)眷属引き連れ、これも同列せり」と舞台の中央にどっかと居座る。専門語では「安座」(あぐら)といい、ふつう勢いを見せるために「飛安座」ということをしますが、実さんは老齢のためか、むしろ柔らかくといいたい位に、軽く廻ってすとんと落ちた。動作は羽毛のようだったが、座った形は大盤石の重みで、舞台は端掛から見物席に至るまで竜神がひしめき合い、釈迦の説法に耳を澄ますかのように見えたのです・・・

・・・私は空想を弄んでいるわけではありません。なぜならそれから少時経って、同じような経験をしたからです。栂野の高山寺に、「明恵上人樹上座禅像」という絵があります。鎌倉初期の名画なので、ご存じの方も多いかと思いますが、京都の博物館でそれを見た時、十年以上も前の感動が、そのままの強さで還って来た。ご承知のとおり、この絵は美しい松林の中で、座禅を組んでいる上人を描いたもので、実に和やかな風景なのですが、自然の中に根をおろした上人の姿は気迫に満ち、松にからんだ藤蔓の末まで異常な力がこもっている。柔和な表情に秘められたこの強さ、それは正しく春日竜神の世界でした・・・
(「明恵上人」白州正子著)

 
何れにしても明恵上人については両著とも興味深い本で興味あられればご一読下さい。

※成弁・・・明恵の最初の法名

※ コンステレーション・・・布置。一見、無関係に並んで配列しているようにしか見えないものが、ある時、全体的な意味を含んだものに見えてくることを言う。


飛翔

2017年10月02日(月)

某日東京出張で夜会食があり、翌朝440にホテルを出る。

ごろごろと坂道をキャリーバックを転がし赤坂見附駅に至る。

国会議事堂など近い為、警護のお巡りさんが立っておられ朝の挨拶をする。

始発とおぼしき地下鉄に乗る。

1000の地鎮祭に向かう為、いつもは新幹線だが珍しく羽田空港に向かう。

浜松町からモノレールに乗る。

明け方の京浜運河を臨む。

羽田空港に着いて搭乗手続きを済ますと丁度600になり、売店の電灯が点灯。

おにぎりを買い、通路にあるテーブルで簡単な朝食。

搭乗すると飛行機は長々と空港の中を廻り、桟橋を越え離陸を待つ飛行機の行列に並ぶ。

朝やけの中で大きな飛行機の行列は何とも言えない不思議な気分。

臨席の窓際の席が空いていた為CA(キャビンアテンダント)に促され窓際に移動。

順番が来てあっという間に離陸。

途中御前崎とおぼしき上空を通過。天候が良い為陸地がよく見える。

少し本を読みながら、時々下界を見下ろす。海と陸地の堺あたりが判りやすい。

・・・まもなく高度を下げながら旋回し奈良あたりの山岳部の上空を飛ぶ。

刈り入れされた田や集落、箱庭のような景色が美しい。

生駒の山を越えると左前方に空港が見えてきた。

八尾空港らしい?

丁度空港のすぐ近接で工事の計画があり、弊社の営業・設計担当者が当局に打ち合わせに通っている。

「どの辺かな?」

と目をこらして見る。

 
 
大阪城が見えてきて高層ビルが沢山見えてきた。

高度もぐんぐん下がる。

「・・・あっ!」

昨年神戸市西区へ移転の工事をさせて頂いたお客様の旧工場が見えてくる。

現在は解体、整地され、別の事業者で杭打ち工事が始まっている。

隣の電器の量販店で直ぐに判った。

阪神高速池田線の横の音楽学校の大きな建物も解体工事が始まっている。

たしか屋上に大きな◯印に「♪」のマークがペイントしてあり、何時も飛行機の上から「判りやすいな〜^^」と眺めていたがもう見えない。

数日前池田線を通ると大きな大きなH型鋼の梁がむき出しになっていた。

 
 
・・・まもなく阪神高速道路の上を横切り着陸態勢に入る。

三田の長年懇意にして頂いている化学薬品会社のお客様の旧工場が大阪伊丹空港の航路の真下と社長様に伺ったことがある。

「どのあたりかな・・・?」

と下を見下ろす。

無事会社に930に到着し、地鎮祭には間に合いました。

快晴の中の住宅の地鎮祭でした。


初秋

2017年08月30日(水)

夕食後居間で二日連続行き倒れ?になったため、夜半寝室のエアコンをかけに廊下に出る。

何とも言えない百合の匂いが廊下に漂う。

玄関に飾った百合の匂い。

・・・秋が来たことを思う。


 

「明恵上人」白州正子著が今日届いたことを思い出し、いそいそと寝室に持って上がる。

丁度この夏に同氏が書かれた「西行」を読み以前から興味のあった「明恵上人」を取り寄せた。
 

西行については弘川寺(河内国)で詠んだ辞世の句
 

ねがはくは 花のしたにて 春死なん 
そのきさらぎの 望月の頃  
 
 
や吉野の桜に縁深い事ぐらいしか知りませんでした。

少し前にNHKの大河ドラマ「平清盛」で微妙に西行が出てくる場面がありました。
 

 西行像
 
 
 
西行(1118ー1190)は平安時代末期の武士・僧侶・漂泊の歌人として知られます。

勅撰集(天皇・上皇の名により編集された歌集)に多数入っており新古今集などに多数の歌が入撰。後世に与えた影響は極めて大きいそうです。後鳥羽院・宗祇(連歌師)・芭蕉にいたるまで大きな影響をあたえたそうです。室町時代以降歌人だけであるだけでなく旅にある人間として世間から大きく尊崇されました。「西行物語」にあるような説話や能に「江口」があり長唄に「時雨西行」があり、卑俗な画題として「富士見西行」があり後世への影響力ははかり知れません。(Wikipediaより)
 

 西行法師行状絵詞
 

俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)といい、むかで退治で有名な俵藤太秀郷(たわらとうたひでさと)(平将門の乱を平定)、栄華を極めた奥州藤原氏に続く家系。佐藤氏の領地は紀ノ川の右岸、肥沃な領地でありました。若き頃名門の家系から鳥羽院の警護を担当する北面武士(ほくめんのぶし。院御所の北面の部屋に詰める。君子南面す。)として出仕、又鳥羽院の中宮待賢門院珠子(たいけんもんいんたまこ)の生家の家人もつとめていました。詩歌管弦に堪能で武芸の腕も抜群と将来を嘱望されていました。この頃の詠んだのが

 
伏見過ぎぬ 岡の屋になほ止(とど)まらじ
日野まで行きて 駒試みん
                 (山家集)
 

元気一杯の若武者が、心行くまで乗馬を楽しんでいる様が詠まれています。

義清は親しかった同じく北面武士の佐藤範康の急死により突然出家に踏み切る。一方では自分の仕える鳥羽院の中宮待賢門院(白河法皇が養女として寵愛し、後の法皇の孫鳥羽院の妻となる)への思慕という説もある。鳥羽院は後に藤原得子(美福門院)を寵愛し、待賢門院との子崇徳天皇(実際は白河法皇の胤子)への譲位を迫り、同じく待賢門院は不遇の晩年を送る。これが後の保元の乱へ繋がっていく。

時代はこれまでの天皇を中心とした公卿による政治から武士の行う幕府の世へと移る激動の時でありました。平家の政権獲得までには保元の乱、平治の乱とそれまでの親子、兄弟、友人が敵味方となって戦いました。世の常ならぬこと、人間の我執の恐ろしさを強く意識される時代であったかと思います。そうした乱世を西行は歩みます。平家全盛から源頼朝による伊豆での挙兵、五年後には壇ノ浦での平家の滅亡、1192年には鎌倉幕府が成立と目まぐるしく時代が移っていきました。
 
 待賢門院像
 
 
  
出家した西行は京の近在や各地に庵を編み漂泊しながら、元々重代(じゅうだい。先祖代々の意)の勇士としての「たてだてしさ」を鎮め、自分の暗黒面を見つめながら天性の歌人としての才能を開花させていきました。西行は世間から隠遁したわけではなく歌壇とは一定の距離を保ちながら漂泊を続けました。自分の詠んだ歌を選び二つのグループに分け「歌合」と称し当代歌壇一流の藤原俊成(千載和歌集撰者)、定家(新古今和歌集、小倉百人一首撰者)親子に判詞を乞うたり、紀州高野山に課せられた木材の調達を平家全盛の平清盛(同年齢の北面武士の出)に免除を掛け合ったり、東大寺再建(華厳宗の大本山。平家により焼討ち)の勧進の為奥州に赴く途上鎌倉では源頼朝と一夜、夜を徹して歓談したりしました。(吾妻鏡より)待賢門院を菩提する待賢門院の女房たちとの折に触れての艶やかな歌のやり取りも残っています。後に栂尾山高山寺の高僧になる明恵上人とも明恵十八歳西行七十三歳の折に出会った痕跡があります。明恵上人の伝記(同法の喜海記す)に「西行法師曰く・・・」の記述があります。そこで西行は歌論を真正面から論じたとのくだりがあり史家からは後世書き加えられたとみられております。西行についてはその他諸々伝説があり虚実の間をすり抜けていくところにその魅力があります。

漂泊の地は嵯峨(待賢門院の菩提)、大原野、吉野山、大峰山、熊野、鴫立沢(湘南)、奥州、江口(天王寺)、高野山、讃岐(崇徳院の菩提)、筑紫の国二見などにおよびました。
 

東海道の小夜の中山で詠んだ歌
 

あずまのかたへ、あひしたる人のもとへまかりけるに、
さやの中山見しことの昔になりたりける、思出られて

年たけて 又越ゆべしと 思ひきや
命なりけり さやの中山
 

・・・このとき西行は六十九歳で、四十年以上も前に、初めて小夜の中山を越えた日を憶い出して、はげしく胸にせまるものがあったにあったに違いない。その長い年月の経験が、つもりつもって「命なりけり」の絶唱に凝縮したのであって、この歌の普遍的な美しさは、万人に共通する思いを平明な詞で言い流したところにあると思う・・・(「西行」白州正子著)
 
 
東の方へ修行(すぎやう)し侍りけるに、富士山をよめる

風になびく 富士の煙(けぶり)の 空に消えて
ゆくえも知らぬ わが思ひかな
 

・・・この明澄でなだらかな調べこそ、西行が一生をかけて到達せんとした境地であり、ここにおいて自然と人生は完全な調和を形づくる。万葉集の山部赤人と比べてみるがいい。その大きさと美しさにおいて何の遜色もないばかりか、万葉集以来、脈々と生きつづけてきたやまと歌の魂の軌跡をそこに見る思いがする。西行が恋に悩み、桜に我を忘れ、己が心をもてあましたのも、今となっては無駄なことではなかった。数寄(すき)の世界に没入した人は、数寄によって救われることを得たといえるであろう・・・(「西行」白州正子著)

 
判らないなりに読んでみましたが、数寄(すき)の世界を自由に生き、自分の心を昇華させた武人のように感じました。「空になる心」「虚空の如くなる心」・・・まさにそんな感じでしょうか?
 
 

 
 

 

 


剣山(十勝山脈)

2017年08月10日(木)

娘が仕事の関係で帯広におり、夫婦で訪ねて来ました。

ここ数年毎年訪ねております。
 

今回は丁度インターステラテクノロジー社(ホリエモンこと堀江貴文氏が関係している。14人の会社)の小型ロケットMOMO初号機の打ち上げがあり、娘が見学の切符(有償)を取ってくれました。帯広から南へ車で1.5H位かかる大樹町で朝500~800の間での打ち上げとのことでした。HPを見ますと「小型で低価格のロケット=ロケット業界のスーパーカブ」を目指すとのことでした。

朝230に帯広を出発し400に到着。多くの方々が楽しみにお見えになっておりました。

別途パブリックビューイングがあり、ちょっとした十勝地方の町興しの感じでした。

発射台から4km離れた高台の丘陵地が見学場所でした。

結構寒いが雲もなく発射陽より。

「Go/NoGoの判断の結果、Go」のアナウンスに場内は安堵の声。

620発射のアナウンスがあり、カウントダウンが始まりました。

当方は一生懸命iPad miniの動画のリハーサルを行う。

途中で液体酸素注入のトラブルがあり「カウントダウン ホールド」のアナウンスがありました。リカバリーを行い再度820に発射のアナウンス。

750に「NoGo」のアナウンス。低温によるバッテリーの電圧低下による液体酸素タンクバルブの不具合だそうです。

次の発射Windowは1020-1230との事。

諦めて芽室町の剣山(1205m)へ向かいました。
 
 
帯広から西へ40分位で登山口の剣山神社に到着。

剣山神社にお参りして登山カードを記入して1020に山道を歩き出す。

緩やかな登りが続く。

・・・重大なことに気づく。。

「カラ~ン♪カラ~ン♪」

すれ違う方々は皆さんクマ除けの鈴をつけておられる。。

「あ~~俺等熊に食べられるんやろか・・・。。。」

・・・一部鈴をつけてられない方もおられ気を取り直して歩く、歩く。

時折、可愛らしい花々も目を楽しませてくれる。


 
 
途中から急な登山道に入る。

ストックを持ってきたが使わず、手袋をした手で石や木の枝、根っこに掴まりながら登る。

ロープに掴まるところもある。

 
 
1時間半位で稜線に出る。(一の森)

暫し小休止して稜線を歩く。

順次不動岩、二の森、三の森等々越えていく。

 
 
いよいよ頂上が見えてくる。

岩がそそり立つようで険しさを感じる。

途中すれ違うサングラス姿の年配のカップルは二人ともヘルメットを被っておられる。

すれ違う女性二人の方に

「これから二ヶ所危ないところありますからね(微笑)」

と声をかけられる。

 
 

いよいよ梯子のかかった岩場を登る。

梯子の下は千尋の谷。。

・・・ロープに掴まりながらハーケンで横向けに固定された梯子の上をトラバースして、梯子を登る。

此処で梯子を下りてくる中学生と父親に出くわす。

慎重に息子さんが降りてきて父親も次ぎに慎重に降りてこられた。

挨拶をしてすれ違う。

 
 
山頂前にも梯子があり鎖に掴まりながら登る。


 
 
やっと山頂に到着。

二人いるのがやっとの岩の頂。

十勝平野が望める。

時計を見ると1250。約2時間半で登ってきた。

 
 
山頂を降りて眺望の良いところでおにぎりを食べ一目散に降りる。

稜線から斜面を降りかけると先ほどの中学生と父親の親子が立ち止まっている。

「?」

・・・えらく早く追いついたので怪訝に思う?

挨拶して追い越して、斜面を降りていく。
 

途中家内に追いついて声をかけられる。

「息子さん、足をくじいちゃったんやて・・・。」

そのまま降りていく。
 

・・・・登りかけにすれ違った折にお父さんが運動靴であったのを思い出す。

息子さんも運動靴かも?

くるぶし固定をしないので挫きやすい・・・。

・・・歩いているうちに疑念がこみ上げてくる・・・。

「・・・ストックを持って行ってあげた方が松葉杖みたいに降りやすいのでは・・?」

「・・・もう大分降りて来たので、又登っていくの大変やし・・・。。」

少し葛藤しながら降りていく。

 
・・・「う~ん。」

踵を返して登っていく。

少し登って耳を澄ます。

何回か繰り返す。
 

中学生とおぼしき声が聞こえてくる。

「足挫いちゃったんやったら、ストック使ってですか?」

「僕は大丈夫。むしろパパの方がいるかも?」

「パパ、ストック使う?」

お父さんも足を挫いておられようでしたが、笑顔で辞退された。
 

(私との距離もあんまり離れてなかったので少し安心して)先におりかける。

後ろから

「パパ!頑張れ~!」

の声が何回も聞こえてくる。


 
 
無事1510に剣山神社に帰還。往復4時間半くらいか。

登山カードに下山時刻を書いて剣山神社に無事のお礼のお参りをした。その後、芽室町駅前のモール温泉「鳳の湯」に向かう。(泥炭などから出る湯のため植物起源の有機質を多く含む)湯量も多く気持ちよかった。

芽室町は高等学校スキー部の恩師の郷里。

芽室町の中学校時代の遠足で剣山は登られたのこと。(直前にわざわざその旨の手紙を頂く。)

恩師の郷里で山登りと温泉とは感慨深かったです。

 
 


大暑

2017年07月26日(水)

早朝姫路市の飾磨区に向かう。

電材会社様の営業用倉庫の地鎮祭でした。

二方道路のほれぼれするような立地で皆で機嫌良くお祓いをしました。

目の前には大手家電メーカーP社の巨大工場が臨まれる。

近在の恵美酒宮(えびすぐう)天満神社様にお祓いをして頂きました。

菅原道真公が祭神だそうです。

宮司様の黄色の装束が強い夏の陽射しの中で鮮やかでした。


 
 
 
昼頃には会社に帰りました。

午後強い雨が降りました。梅雨明けに雨が多い気がします。

夕刻にめがけて綾部方面のお客様の処へ挨拶に上がりました。

上林の奥の故屋岡という集落です。

会社から40数キロありほぼ福井県堺です。

弊社の先代が昭和28年の水害の折に集落へ入って災害復旧工事に従事した場所です。

道中あまごや鮎の釣りの注意看板が見られる。


 

お客様のお宅に上がると奥様がおられてご挨拶をさせて頂く。弊社で数回リフォーム工事をして頂きました。

前回も一度ご挨拶に上がっている。

昭和28年の水害の折に弊社の先代がこの集落に入らせて頂き河川の蛇篭工事をした旨をお話ししました。

「・・・家の前は皆蛇篭ですよ。家の前が水でいっぱいになり70年生きてきて一番怖い目をしました。」

丁度弊社の創業65年の社史に故屋岡や前の河川の古和木川の工事の写真が入っているので社史を送らせて頂くとお伝えしてお別れしました。
 


 

 
 
丁度行く前に母の処に寄る用事があり、雨が小降りになり「今から綾部の故屋岡行ってくるわ・・・。」と話しますと

若い頃に父と上林の故屋岡に入っていた母は

「故屋岡は綾部の一番奥や。あの頃のことを昨日のことのように思い出すわ。」

と私と歩きながら前を向いて驚くほど若々しいハリのある声で言いました。

若い頃の記憶は声も若返らせるのでしょうか?

 
 
・・・帰りに上林から小さな峠を越えて渕垣を通って七百石のお客様のお宅にも寄りました。

以前に住宅の離れを建てさせて頂き、今回キッチンを入れさせて頂きました。

少し遅い時間で失礼でしたが寄らせて頂きました。

弊社の退職されたIさんの友人であられるご両親、ご本人様三人で外に出て頂き見送って頂きました。

「上がってもろたらええのですけど・・・。」
 
 
多くの皆様につくづくお世話になっております。
 
 
 
 
こんこんと 水は流れて 花菖蒲  
                臼田亜浪