社長ブログ

花惜しむ

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桜の季節となりました。

今年は花見もなく寂しいですね。

黄砂も凄く遠くが霞んで見えます。
 
 

 
 
 
 
 
 
 
昨日より本年度の新入社員がやってきました。

気鋭の若者たちで大いにその将来を期待したいと思います。

今年は社内カレッジ「ヨネダ・トレーニング・アカデミー(Y.T.A)」も開講します。

新人に系統だてた知識を伝えるために社内の若手メンバーを中心に結構な時間をかけてシラバス(講義概要)を作り準備してきました。

長丁場のアカデミーになりますがじっくりと取り組んでいきたいと思います。
 
 
  
  
 

  
 

 
 
 

 
 
 
 
 
  

引いてやる 子の手のぬくき 朧かな

                  中村汀女

 

 
 
 
 
 

 

和漢の境をまたぐ

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今年は節分が1日早く、従って立春も1日早い。

恒例の「立春大吉」お札書き。

早朝に起き、墨をすり筆をとる。
  


  

数十枚書き自宅や会社に貼る。

社員も慣れたもので手伝ってくれる。

「・・・『社長コピーしとってんかなあ?』というてましたで・・・w」

「・・・・・・。。」

慣れれば1時間半もあればかける。

春が来た気分になる。

以前四国から来られた建設会社の社長さんが弊社から帰られる時に玄関扉の上にお札が貼ってあり、

「まじないですか(;゚Д゚)」

と大層驚かれた事がある。。
  
  

硯箱セットに「倭漢朗詠抄」(和漢朗詠集)が習字のお手本として入っていた。
  

あしびきのやまどりのをのしだりおのながながしよをひとりかもねむ 人丸
  

丁度、松岡正剛氏の「日本文化の核心 ジャパンスタイルを読み解く」や「日本という方法 おもかげの国 うつろいの国」を読んでいたために思わずこのお手本を興味深く手にとりました。

著者は日本の文化を理解するうえで「稲作・鉄・漢字」の到来は原始古代の日本への大きな三つの「黒船の到来」と捉えています。

後述しますが、「和漢朗詠集」は「和漢の境をまたぐ」上での日本のエポックメーキングな事象を表します。

「稲作・鉄・漢字」の到来は、ほぼ同時期にやってきました。(稲作は約3000年前の縄文時代後期、鉄は紀元前4世紀~前3世紀、漢字は紀元4世紀と少し遅れるが・・)

話が長くなるので「稲作・鉄」は割愛して「漢字の到来」について記します。

それまで日本人は口伝、オラル・コミュニケーションでした。

一万二千年前からはじまる縄文社会には「縄文語」というべき言葉によるコミュニケーションがありました。文字はなくもっぱら「原日本語」ともいうべき話し言葉によるコミュニケーションでした。

縄文時代後期には人々は協業や分業を始めます。共同墓地、環状列石(ストーンサークル)が登場し、呪術用具がさかんに作られました。縄文晩期になると人々は身体に文身(ぶんしん)を施し体や顔を飾りたてた。文身とはイレズミの事。「文」とはアヤをつけるという意味です。縄文の文様や模様、つまり「文」(あや)が重要な意味を持ちます。

日本人が漢字に初めて遭遇したのは、筑前国(福岡県北西部)の志賀島(しかのしま)から出土した「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)という金印や銅鏡に刻印された呪文のような漢字群です。当時中国はグローバルスタンダードの機軸国故素直に未知のプロトコル(外交儀礼)を取り入れました。(華夷秩序というらしい・・。)

その過程の中で当時一万若しくは二万種類あった漢字を日本人は自分たちのオラル・コミュニケーションの発話性に合わせて読み下してしまいました。日本歴史上の最初で最大の文明的的事件でした。ただ輸入したのではなく、劇的な方法で編集しました。

その後日本の中で中国語学習の大きなムーブメントが起きました。(奈良朝から平安初期の遣唐使船の大きな目的は仏教経典を輸入することでした。平安末期の平家は宋学の本を日本に持ち帰りました。室町時代の官貿易、倭寇貿易も同じでした。日本人は思想書を読むのが大好きでした💕※)百済からの使者たちが「千字文」「論語」などを教える者と共にもってきた。天武天皇の時代(681年)に「帝紀」(すめろきのひつき)や「旧辞」(ふること)を編纂されました。稗田阿礼(ひえだのあれい)がこれを日本語として誦習し半ば暗誦しました。

ついで和同4年(711年)、元明天皇は大安万侶(おおのやすまろ)に命じて「古事記」を著作させました。目的は「邦家(みかど)の経緯(たてぬき)、王化(おもぶけ)の鴻基(おおもとい)」を表すためです。大安万侶は稗田阿礼に口述させ漢字4万6027文字で「古事記」を仕上げたました。表記に前代未聞の施しをしました。漢字を音読みと訓読みに自在に変えて、音読みにはのちの万葉仮名にあたる使用法を芽生えさせました。

たとえば「大」は中国語で「ダィ」と発音していたので近似音で「ダイ」としました。しかし日本人は「大」を自分たちの古来の言葉であった「おお」「おおし」「おおき」などの訓読みもするようになり、音読み、訓読みを平然と使い分けるようになっていきました。「生」はショウ(一生)ともセイ(生活)ともキ(生蕎麦)とも読み、かつ「いきる」「うまれる」「なま」(生ビール)とも読みました。驚くべきことでした。

そして日本独自の「仮名」の発明。万葉仮名は真仮名、真名仮名、男仮名と進化し女たちが学びつつ進化させ「女文字」として柔らかな仮名になりました。「安」は「あ」に「波」は「は」に「呂」は「ろ」になりました。「漢字仮名まじり文」の発明です。誠に大胆で、かつ繊細なジャパン・フィルターが作動しました。

当時は日本は中国のオリジナルに倣い、学びながら、日本の自在なリミックス(複数の既存曲を編集して新たな楽曲を生み出す手法)を行うという、日本特有のグローバルスタンダードの受け入れ方は7世紀から9世紀に行われた遣唐使において顕著にあらわれました。日本は唐に使節を派遣することでグローバルスタンダードの数々の制度や文物を持ち帰り、それによって建築技術、仏像技術、造船技術をマスターしました。けれどもいつしか建築技術や仏像における積み木細工や寄木つくりなどを編み出しています。もしそうしないと日本の家屋は全てチャイニーズレストランのようになったりし、太秦広隆寺の優雅でアンニュイな弥勒菩薩像を生み出すことはなかったでしょう。

広隆寺 弥勒菩薩半跏思惟像
  

もちろん中国のグローバルスタンダードをそのまま使うこともあり、太極殿(朝廷の公式裁定をするところ)や禅宗建築はそれに近いです。柱は朱色など極彩色、沓(くつ)を履いたまま登壇します。朝廷は同じ敷地内に必ず紫宸殿(ししんでん)や清涼殿を併設しました。檜皮葺(ひかわぶき)の高床式、沓を脱いで上がる。「漢」と「和」が両立。「デュアル・スタンダード」が意図されました。「いったりきたりできる」「相対性」を活かすことを日本人は重視しました。

他の例で言いますと例えば禅宗は中国から伝わりました。鎌倉時代には宋西や道元は中国へ行って修業もしています。しかし日本の各地に禅寺が建つようになりますとその一角に「枯山水」(かれさんすい)という岩組や白砂の庭が出現します。竜安寺や大徳寺が有名です。中国の庭園には植物も岩も沢山ありますが、日本の禅庭は最小限の石と植栽だけで作られています。

お茶も中国からやって来ました。栄西が「喫茶養生記(きっさようじょうき)」その由来を綴っています。日本は最初それを真似ていましたが、やがて「草庵の茶」という侘び茶の風味や所作に添加していきました。その為茶室を独特の風情で作り上げました。身ひとつが出入りできるにじり口を設け、最小のサイズの床の間をしつらえました。部屋の大きさも広間から四畳半、三帖台目(だいめ)へ、更に二帖台目というふうになっていきました。中国ではこうしたことはおこらず、ここにも引き算がおこっています。侘び茶や草庵の茶に傾いた村田珠光(じゅこう)は短いながらもとても重要な「心の文(ふみ)」という覚え書きの中で、そうした心を「和漢の境をまぎらかす」と述べております。大変画期的なテーゼ(命題)でした。

「和漢の境をまたいだ」例として、紀貫之(きのつらゆき)が第二次日本語認知革命といわれるべきものを起こします。「古今和歌集」を編纂するのですがその序文に「真名序」(真名は本家=中国)と「仮名序」(本家に対して少しへりくだり=日本)という漢和両方の序文をつけました。本来同じ意を書くはずですが、真名序では中国における漢詩のルールとねらいを書き、仮名序ではそれを日本に移した時の和歌独特の変化のスタイルとねらいを書きました。「やまとうたは、人の心を種として、万(よろず)の言(こと)の葉とぞなりにける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るも聞くものにつけて、言ひだせるなり。」中国人の「真名序」とはかなり異なります。

貫之の実験は「土佐日記」において、更に前代未聞のものとなりました。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとするなり」と書かれています。当時、日記は男性貴族が漢文で書くものと決まっていました。それを女も書いてみようと思ったと書いてあるが、男の貫之ですから、ここには仮想のトランスジェンダーがおこしてあります。その日記は漢文でなく仮名になっています。「土佐日記」は「和漢の境」と「男女の境」を二重にまたいだ実験でありました。

やっと和漢朗詠集について話を進めますが、著者は日本文化を読み解くうえでの重要な位置を占める私撰詞花集とみています。(古今集などは勅撰和歌集)藤原公任(ふじはらのきんとう)は娘の婚姻記念の引き出物に作成しました。平安時代の王朝文化で流行した漢詩と和歌のヒットソングを集めたベストアンソロジー・アルバム(特定のテーマについて集められた詩歌集)だとみればよいかと思います。公任は漢詩一詩に和歌三首、あるいは和歌二首に漢詩三詩などいろいろ対比させて漢詩と和歌を両方非対称に収録しました。これは「なぞらえ」という方法です。公任は紅・藍・黄・茶の薄めの唐紙に唐花紋をあしらった雲母(きら)擦りにして、名筆家でなる藤原行成(ふじはらゆきなり)の草仮名(そうがな)で仕上げました。

 


             雲母擦り
  
 

部立ては上帖を春夏秋冬の順にしてさらに細かく、冬ならば「初冬・冬夜・歳暮・炉火・霜・雪・氷付春氷・霧・仏名」(時の移ろいを追う)。下帖はもっと自由に組み「風・雲・松・猿・故京・眺望・祝い・・」といった四十八題を並べました。最後はよくよく考えて「無常」「白」で終わらせました。最後は全てが真っ白になるよう考えられました。これをアクロバチックにも漢詩と和歌を自由に組み合わせました。
  

身を観ずれば岸の額に根を離れたる草
命を論ずれば江の頭に繋がざる船         (厳維)

世の中をなににたとへむ朝ぼらけこぎゆく舟のあとの白波   (満誓)
  

厳維の漢詩は「岸を離れる草」と「岸を離れる舟」の絵画的な比較をもって生死の哀切におよんでいるます。満誓の和歌は劇的な対比はしていません。ただただ「こぎゆく舟のあとの白波」に生死の無常を託しています。漢詩と和歌を一組の屏風や一巻の歌巻の中で対同させる。和漢による同時共鳴という試みです。アワセ・カサネ・キソイ・ソロエという方法が躍如しています。
  

お手本を眺めていますと・・・おっと、「屈原」が出てきました。

楚の王族であった屈原は、博識の上政治的手腕も優れていたために、王に信任され要職につきます。しかし他の官僚の妬みにあい失脚、最後は長沙(湖南省)に左遷されてしまいます。王に見放された屈原は楚の未来を憂いつつ泊羅(べきら)の淵に身を投げ、失意のうちにその一生を終えました。後年その死を悼んだ里人は命日の五月五日に供養として竹筒に米を入れ、泊羅の淵に投げ込みました。ある時屈原の霊が現れ訴えました。「淵にはこう龍がすんでおり投げ込んだ供物を食べてしまう。厄除けに栴檀の葉で包み五色の糸で巻けばこう龍は食べないであろう。」それから里人は教え通り供物を作るようになったそうです。

粽(ちまき)の始まりだそうです。

 


屈原  横山大観作  
  

・・何故か立春の話から漢字の伝来、端午の節句の粽(ちまき)の話になってしまいました。

長々とお付き合い頂き有難うございました。
  

 
 
※司馬遼太郎著「この国のかたち」から

謹賀新年

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明けましておめでとうございます。

お揃いで輝かしい新春をお迎えになられたことをお慶び申し上げます。

本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
 
 

 

高校時代の恩師から年賀状を受け取りました。
 


 

傘寿のお祝いを5年ほど前に仲間とさせて頂き2年ほど前には一緒に信州を旅しました。

コロナ禍でご高齢の先生も戦っておられるのがよくわかります。

新型コロナが早く収まり穏やかな日々になります事を祈るばかりです。
 

(八方尾根にて)

(先生の奥様から頂いた革細工のレリーフ「晩夏」)

 
先生から折に触れてお便りを頂いており、随分と永らく薫陶を受けております。

ご縁に感謝です。

年の瀬

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今年も数えるばかりとなりました。

昨日はグループ会社の西部開発(砂利採取業)で営業部長のKさんが退職されました。

61歳から9年7ヶ月間砂利採取の許可申請業務をお世話になりました。

以前は大手住宅メーカーの営業職で鳴らしておられ旧知の仲でお声かけしてお世話になりました。


(月が綺麗でしたのでKさん、工場長と撮りました)

西部開発の御用納の日に皆で送り出しました。

花束や記念品をお渡ししました。

少人数の会社ですが個性派揃いの面々ですが仲良く仕事をさせて頂きました。

何時も年末は小浜の漁師宿で皆で泊まりゆっくりやるのですが今年はそれがなく残念でした。

難しい申請業務を熟練の技で助けていただきました。

良い思い出ばかりで感謝感謝です。
 
 
 
年末の25日に今年の1級建築士試験の製図の合格発表がありました。

見事神戸支店の設計のH君が1回目の挑戦で合格しました。

(弊社では7年連続の合格者💮)

仕事の忙しい中寸暇を惜しむ彼の努力であったかと思います。

神戸支店の移転祝いに飲みに行く折に横断歩道で彼が私に

「予備校の先生が製図試験の図面(試験日にそのまま数時間かけて複製を作るらしい)をみて、『これやったら合格してると思う』と言って頂いた。」

と不安とはにかみの少し入り混じった面持ちで話してくれました。

若い仲間の未来に大いに期待したいと思います。
 

 
 
・・・そんなこんなで今年も暮れていきます。有難うございました。・・・

南の風

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過日週末を利用して高知まで足を伸ばしました。

新聞に載っていた日本の植物分類学の父牧野富太郎氏を記念する高知県立牧野植物園を見るためでした。

道中大歩危、小歩危、祖谷渓谷に立ち寄りながら行きました。


 
 
牧野記念植物園は高知市の五台山の一体約8haにありました。博士ゆかりの野生植物が約3000種以上植えてあるそうです。


wikimedeiaより

牧野富太郎博士は高知県高岡郡佐川町で生まれ。高知の豊かな自然に育まれ、幼少から植物に興味を持ち独学で植物の知識を身につけた。1884年、22歳で東京大学理学部植物学教室への出入りを許され、植物分類学の研究に没頭。1889年に新種「ヤマトグサ」を発表。日本人として国内で初めて新種に命名。生涯において収集した標本が40万枚、蔵書4万5千冊。1940年には現代でも研究者や愛好家の必携の書「牧野日本植物図鑑」を刊行。生涯においては研究に没頭するあまり借金に苦しめられ、その都度まわりの篤志家からの援助に助けられた。

家内が新聞に「牧野植物園」が載っているとの事で直ぐに何度か名前を聞いたことのある牧野富太郎博士の名前が頭に浮かびました。広大な起伏を活かした敷地に沢山の植物が植えられ何時間も楽しめる場所でした。植物園の建物自体も円形の木造架構の大空間で回廊も視覚的に美しかったです。村野藤吾賞を受賞しています。設計は内藤廣建築設計事務所でした。
 
 

翌日は朝市に行き桂浜に寄り帰路につきました。

野菜が洗われ整然と並んでおり、お供の犬たちも綺麗に(多分)洗われ横でとても良い子にしていました。

「・・・なるろ・・・。」

と語尾に「ろ」をつける珍しい訛りを聞きながら4色のラデイシュ、小ぶりな真っ赤なトマト、セロリ、色鮮やかなレモン、イタリアンレタス等を仕入れしましたw
 
 

桂浜では坂本龍馬像が太平洋の向こうに日本の未来を見つめていました。

来た時に何時も見るのですが像の後ろの銘板に

「時 昭和参年五月
 建設者 高知縣青年」

とあります。

「高知縣青年」がいいですね。


 
 
 
・・・以下蛇足乍ら・・・タブレット端末のメモ帳に土佐藩のことを記しておりました。

「この国のかたち」 司馬遼太郎著より

「土佐藩
倜儻不羈(てきとうふき)の一手販売の土地
風土的精神として拘束を好まない
中江兆民 ルソー思想の日本への移植者 少年期三度の食事後茶碗投げる
微塵に砕ける音に快感 母奇癖奇行に寛容
頑質ではない。柔軟 民約論の訳者 明治天皇、西郷隆盛を敬慕
官権思想の秀才 井上毅(こわし)も好き 坂本龍馬も好き
坂本龍馬 役人にならない 無私の発言ほど力 倜儻不羈の人
土佐人 南海道の気質 平等意識 長宗我部氏 国民皆兵 我が家は一領具足という伝統 関ヶ原敗者 遠州掛川の山内氏 郷士制 屈辱的な土下座の礼
佐幕藩乍ら天皇制を夢見る 二元性 江戸期の多様性」