ローマ人の物語

2012年4月15日

ブログ

「ローマ人の物語」塩野七生著を読了しました。文庫本で43卷あったため、長丁場となりました。

ブログで振り返って見ますと3年掛かりで読んだことになります。途中ベネチア共和国の千年の歴史「海の都の物語」やフィレンツェに関係した「我が友マキャベリ フィレンツェ存亡」又ユリウス・カエサルの名著「ガリア戦記」や「内乱記」などにも興味の向くまま寄り道しましたので思いのほか時間がかかりました。

人の話でエドワード・ギボンの大作「ローマ帝国興亡史」の名を知るようになり、仰ぎ見る思いで、いつしか読んでみたいと思っておりました。
 
21歳の頃、欧州をバックパッキングで60日余り、ユースホステルや夏休み中の大学の寮や小学校の教室などに泊まりながら一人旅をしました。その時、ドイツとベルギーの国境に近いオスナブルックという小さな街でドイツ人の銀行家の家に泊めていただきました。

その夫人がお墓を案内してくれて、お墓の紋様をわかり易いクイーンズイングリッシュ(イギリス英語)で

typical Roman style

と説明してくれました。

「は~、ローマ様式がここまで伝わっているのだなぁ・・。」と漠然と思いました。


1979 YOUTH HOTELS in Europe and the Mediterrean Area
 
ギボンはフォロ・ロマーノ(古代ローマの中心地の遺構。凱旋門等)を訪れたがために大作を書き、青年アーノルド・トインビーはイタリア中を自転車で旅することになったそうです。

塩野は「千年の歴史を有するのはベネチア共和国も同じだが、同時代の他の国々やその後の時代まで甚大な影響を与えたことになると比較しようもないくらいにちがう。」と書いている。

塩野は「ローマ人をわかりたい。」という純粋な思いで書いたそうです。読者にも「わかった」という思いを共有して欲しいとあとがきで述べている。
 
 

ローマ帝国は前753年に一人の若者ロムルスと彼に従う3千人のラテン人によりローマは建国された。7代続く王政の下国家としての体裁を整える。前509年に共和制に移行。その後成文法制定のために先進国ギリシアに視察団を派遣。

ローマ人はギリシャ文化や哲学を尊敬しており、自宅に家庭教師をギリシャから雇ったり、奴隷として家庭の執事として使役する記述がいたるところに出てくる。

共和制とは時代によって変わるが①執政官②元老院③市民集会の権力の三極構造。執政官は1年任期2名。権力の私物化を防ぐ構造。元老院は執政官に助言する機関。名門の家の者が歴代なる。後には軍歴で名を上げたものや征服された属州からも輩出。市民集会は執政官が決めたことを承認・否承認する機関。

良く映画などで元老院や市民集会を見かけますね。

共和政は前27年のユリウス・カエサルの帝政開始まで続く。その間が古代ローマの「高度成長期」。他国との戦争を繰り返し、地中海の覇権を確立していく。有名なものは第1次~第3次ポエニ戦役。北アフリカの大国カルタゴの名将ハンニバルがローマまで迫り、ローマ市民を震撼させる。若き武将スキピオが連戦連敗の国を救い、地中海の覇権を確立する。地中海は「我が内海(マーレ・インテルヌム)」になる。

その後帝国は内部から疲弊し混乱するも、前100年に一人の創造的天才ユリウス・カエサルが生まれる。中央にでたカエサルは8年間の戦役の後、ガリアの統一の悲願を果たす。元老院から「軍の即時解散」と帰国を命ぜられるも、ルビコン川を渡りローマに迫る。元老院と結びついた宿敵ポンペイウスにも勝利し、帝政を開始する。直後元老院でブルータス一味に暗殺される。

その後カエサルの養子であるアウグストゥスが共和政を形態を取りながらの帝政を開始。巧みな統治で戦争のない安定したローマ世界の実現「パクス・ロマーナ」の基礎を作る。帝政によりローマ帝国の「安定成長期」に入る。

帝国の安全保障と経済成長が主眼となりあらゆる法制度が施行される。特にライン河・ドナウ河の防衛線(リメス)が重要となる。現在のライン・ドナウ河沿いの都市にはリメスの軍団基地がおかれ、ローマと同じ形式の都市の原型が建設される。ケルンは植民地(コローニア)転じてケルン。

「パクス・ロマーナ」の成功の要因として、

1.敗者をも飲み込むローマ式属州統治方式。
  自治権を認め、単純な税制
  正規軍としてのローマ軍の補助兵としての属州軍の共闘

2.ローマ軍団の確立。
  重装歩兵の確立
  軽装騎馬兵

3.アッピア街道をはじめとするローマへの街道(=当時の高速道路)網や水道・都市インフラの確立。(「すべての道はローマに通ず」の言葉通り)

等が考えられます。
 
 
その後、皇帝ネロはじめ悪名高き皇帝たちが出ますが、トライアヌス・ハドリアヌス・アントニス・ピウスの三賢帝の世紀になり危機を克服。防衛線の再編・社会基盤の整備・福祉の拡充と成功し、帝国の版図は最大となる。ハドリアヌスは治世の三分の二を帝国の視察=防衛線の再構築にあて防衛体制を磐石なものにする。

二世紀後半、帝国にも陰りが見え、飢饉や疫病、蛮族の侵入などが始まる。ドナウ河やパルテァ(スペイン)で蛮族との戦いに明け暮れる。ローマは帝位をめぐって内乱が発生。北アフリカ出身セベルスが帝位に就き軍を立て直そうとする。税制面の圧迫となり、徐々に衰退が始まる。

度重なる蛮族の侵入や同時多発する内戦、国内経済の疲弊、地方の過疎化が徐々に進む。ペルシアとの戦役で皇帝が捕らえられる不祥事も発生。キリスト教も徐々に浸透していく。

293年、ローマの再建に立ち上がったディオクレティアヌス帝は、帝国を東西に分け、それぞれに正帝と副帝を置いて統治するシステム「四頭政」(テトラルキア)を導入。軍費増大で国家財政が疲弊していく。

遂に東西の皇帝により「ミラノ勅令」がだされ、一神教のキリスト教が公認される。多神教を是とするローマ帝国のよき伝統はなくなる。東の皇帝のコンスタンテイヌスは新都コンスタンテイノポリス(現トルコのコンスタンテノーブル)を建設。キリスト教を特権的に振興した。ローマ世界はまったく違った世界に変わる。

その後内戦と帝国の迷走があり、ついにキリスト教は国教として認められる。ローマ世界がキリスト教に飲み込まれる。度重なる蛮族の侵入やローマの劫掠があり、ローマは終焉を迎える。
 
 
読んでみての感想は

1.紀元前に共和政という近代的な政体を持ったことの賢明さ。

2.ローマ帝国が街道網や水道・都市基盤を重視し帝国を建設していったことの慧眼。

3.敗者をも飲み込むローマの緩やかな統治システム。

4.人材が輩出したときの帝国の発展と人材がないときの帝国の衰退。

5.ローマ人のパブリック(公共)への考え方。皇帝や豊かなものが私費で水道やフォロ・ロマーノの公共建築物を整備する慣習。

6.ライン河沿いの都市とドナウ川沿いの都市は全てローマ帝国のリメス(防衛線)の軍団基地が原型になっていることの感慨。(英国にもリメスがある)

 
 
最後に、

「人ひとりにして国興り、人ひとりにして国滅ぶ」

の言葉を改めて、あらゆる組織に当てはめて、つくづくと考えさせられました。

 
 

  

 

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