社長ブログ

今年の春

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心待ちにしていた三月になりとても嬉しいです。

毎年、寒の厳しい間は

「もう一月で三月や・・・。春が来るw」

「厄神さんが来たら寒も終わりやし・・・。」(厄神さんのお祭りの頃に雪が多い)

等と春を心待ちにしていました。

 
昨日は雨の中、内田町の分譲地で1棟目の地鎮祭を行いました。

お客様を待っている間、一宮神社さんの宮司様と厄神さんの話していました。

「高良厄除神社というらしいですね。今年は会社に年男が何人かいて参ったようです・・・。」

「厄神さんは旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうのかみ)を裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)が断りと兄・蘇民将来(そみんしょうらい)が貧しいながらももてなしたという故事から来ています・・・。武塔神は疫病を避けることができる神様で・・・。」(宮司さん)

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お客様がおみえになる。

若いご夫婦と3歳ぐらいの女の子。

無事地鎮祭を済ませ帰られる。

帰り際、女の子とハイタッチw

前回の着工式で、私と大分カラーボールやサッカーボールを投げっこした仲。

最初は私に対して無言だったが、・・・時間がたつにつれ思い出してくれたのかも・・・w
  
 
最近は着工式で子供さんと遊ぶことが多い。

ご両親には担当者が図面の説明等している。

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私のパターンとしては・・・、

1.おもむろに社長室の横から、インデイアン?のテントを持ってくる。 (序)

2.子供さんはやはり興味があるらしく、直ぐにテントに入られる。

3.おもむろにカラーボールをテントに投げる。     (破)

4.いつの間にかカラーボールの投げ合いになる。    (急)

先日も1歳4ヶ月の女の子とカラーボールの投げっこが始まる。

だんだんテンションが上がってきて社長室の会議テーブルを挟んで相手に向かって転がしっこ。

キラキラとした顔で笑ってくれるw

帰りのお見送りの時は勿論、車中からハイタッチの連続。(祝言)

とても幸せな気分になるw

(括弧書きは世阿弥の能楽論から?)
 
 
 
先日お昼に家によると、なにやら子供さんのおもちゃやリュック、水筒が居間に置いてある?

「はは~ん・・・、子供さんをあずかっているんやな・・・。」(微笑)

じゃましたらいかんので出かけようとすると、家内が3歳ぐらいの男の子の手を引いて公園から帰ってくる。

「ご飯たべていき。」

とのことで○平君と一緒に食事w

とても愛らしい。

私の前でお母さんが作ってくれたとても可愛らしいキャラ弁を食べられる。

いろいろと話してくれるw

「またおいでよ○平君」

と頭を撫でて家を出る。

先日からファミリーサポート事業の手伝いを我が家でやっています。
 
 
子供さんとご一緒することの多い今年の春です。
 
 
 
 
 
引いてやる 子の手のぬくき 朧かな
               (中村汀女)
 
 
 

天草

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先週、仕事を兼ね天草まで行って参りました。

心易くしていただいている社長さんが天草におられるため、本来なら東広島の会場のところを空路、天草に向かいました。

家内も帯同しました。

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熊本空港でレンタカーを借りて、天草市本渡へ向かいました。

3時間余りかかりました。

天草五橋といわれる島や湾を横切る大きな橋からの島原湾や天草灘の眺めは雄大なものでした。

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研修会の合間に天草キリシタン館に連れて行っていただきました。

「天草・島原の乱」を我々は知っている程度ですが、天草のキリシタン文化を興味深く見学しました。

当時のキリシタン弾圧と重い年貢の徴税に対して島原・天草地方の3万7千人の農民が立ち上がり幕府軍10万人と戦ったそうです。

特に原城の激しい攻防戦は90日に亘って繰り広げられたそうです。
 
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戦いのシンボルとしてとなった天草四郎時貞(関が原の戦いで破れた小西行長の遺臣益田甚兵衛の息子益田時貞)は当時15歳。

展示してあった当時の墨で書かれた記録に「才知、並ぶものはなし。」と書かれていました。

地図を見てみますと西からの南蛮文化(ポルトガル、スペイン。もともと中華思想からきており南方の帰順しない蛮族を指す。四夷の一つ)の渡来地は、長崎地方、島原天草地方、鹿児島地方と地政学的になります。

・・・これより我々は天草地方に影響を与えたキリシタン文化、南蛮文化を見て歩くことになります。
 
 
 
翌日は小雨模様でしたが車を天草灘に沿って南に走らせ大江天主堂、瀬崎教会、牛深などへ足を運びました。

天草、あまくさ、Amakusa・・・・・、雄大な天草灘をみて走っているうちに、唯一知っていることを思い出しました。

以前、江戸時代の歴史家頼山陽(主著に日本外史がある。)の詩集に「泊天草洋」と言う詩がありました。

泊天草洋

雲耶山耶呉耶越
水天髣髴青一髪
萬里泊舟天草洋
煙横篷窗日漸没
瞥見大魚波間跳
太白當船明似月

遠くに見えるのは、雲だろうか、山だろうか、それとも呉の地だろうか、越の地か。
水平線との境に、髪の毛のような青い一筋が連なっているのがみえる。
万里の彼方に広がる天草洋に舟を泊めて、夕もやが舟の小窓あたりにたなびいて、太陽はしだいに西の海に沈んでいく。
一瞬、波間に大きな魚がびとび跳ねるのが見えた。
空には、宵の明星の金星の光が舟にあたり、それは月の輝きのように明るかった。
 
 
 
途中、「五足の靴」ゆかりの記念碑がありました。
 
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「五足の靴」とは明治の終りに九州を旅した5人の文学青年たちが東京の新聞社に書き送った紀行文の題名だそうです。

新詩社主宰の与謝野鉄幹と、その同人である学生の北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里の5人だそうです。

白秋の生家柳川を訪ね、その後天草西海岸沿いを旅したそうです。

5人は大江の天主堂で、あこがれの宣教師パーテル神父に会うことによって旅の最大の目的を果たし終えます。
 
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この旅での体験は、紀行文「五足の靴」以外にも、木下杢太郎は詩集「天草組」、北原白秋が「天草雅歌」や「邪宗門」などで発表したそうです。

5人の青年時代の天草の旅は、彼らの南蛮文学をはじめとする、その後の創作活動や人生に大きな影響を与えていったそいうです。
 
 
江戸時代から明治時代へ人々を旅にいざなう天草、・・・私もキリスト文化と温暖な天草灘の眺めに旅情をかきたてられました。
 
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時空を旅する。

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年末に弊社創業65年史が上梓しました。

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昭和24年に土木工事の労務提供の下請負業者として先代が創業して昨年で65年の歳月が流れました。

其の間、多くのお客様、仕入先様、金融機関様、地域の皆様にご支援いただき時代、時代の風雪に耐えて参りました。

深く感謝申し上げます。
 
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丁度、私的な用事から先代の戸籍原票を目にする機会がありました。

現住所の変遷が記載されており、先代から預かっている工事経歴と照合致しました。

当然の事ながら一致しており、

「この機会に弊社の歴史を明らかにしておこう。」

と思うに至り、社史の編纂にあたりました。

会社に残された資料や写真集め、身内や社友(会社の先輩)への聞きとりを行いました。

創業の頃の工事場所にも足を運びました。

 

記録に残る最初の仕事は昭和24年の京都府北桑田郡京北町鳥居での災害復旧の築堤工事でした。

山国神社の脇に飯場を構えキテイ台風で荒れた堤防の復旧工事をトロッコでしたそうです。
 
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昭和27年に施工した亀岡市三宅町の年谷川のとしたに橋は現在も亀岡から馬堀への街道の橋梁として老体に鞭打って頑張っておりました。

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65年間の資料を整理するには大分時間がかかりました。幸い先代が写真を残してくれてましたので助かりました。また法人としては52期目ですが決算書で工事経歴がよく分かり、それ以前も個人経営の時代の工事経歴も元請さまから頂いた工事経歴に弊社がさせていただいた分を鉛筆で印をしてありました。

また、母が日々手帳にあったことを簡単に記録しており、それを年ごとに大学ノートに纏めてありました。(注)

創業の頃には父母とも相当な苦労があったようです。時代もそのような時代でした。
 
先代と供に仕事をした会社の先輩にもお聞きしました。

感じたことは「先代を素朴に信じて懸命に土木工事、建築工事をやってこられた。」ということです。

「先代が『○○・・・』というたからしたんや。」

みたいな素朴な無邪気なお話が多かったです。
 
 

会社のN女史の力を借りながら原稿を纏めていきました。

威力を発揮したのは、iPad miniの音声入力でした。

ドンドン話しながら入力しました。

当て字もありましたが、気にせずドンドン入力しました。
 
 
出来上がってみて感じることは

1.会社の骨格・歴史がはっきりした。

2.先代と昔の従業員との素朴な信頼関係と懸命な努力が会社を生きながらえさせた。

3.反響の大きさに驚いています。母がとても喜んでくれたり、親族、会社の先輩、先代ゆかりの方々から熱い声を頂いています。

 
 
配らせて頂く先は

1.長年支えて頂いている古くからのお客さま、金融機関さま。

2.会社の先輩、従業員、従業員の両親。秋田県由利本荘市の出稼ぎの方々(昭和30年代よりお世話になった。)

3.先代ゆかりの方々。尋常高等小学校の同級生、地域の先代の友人、協力会で先代を知って頂いている会社。

4.長年商いを共ににさせて頂いている仕入先さま。

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配る先を専務と相談していましたら、先代ゆかりの方々がいろいろ思い出されてきました。 
 
愉快な話では、先代が背が低かったので、いつも行く飲み屋のマスター(この方も背が低い)に、

飲んだときに先代が

「△○ちゃん、あんた背が低いので僕が死んだらあんたに背広あげるわw」

と常々言っておりました。

その後大分年数がたって、先代他界後、△○さん宅のリフォーム工事を施工しました。

女性の担当者がとても可愛がっていただきました。

△○さんが会社に来られた折に、開口一番

「僕は先代の背広、奥さんからもろたでw」

みたいなお話をして頂きました。

勿論、△○さんにお届けします。

 
 
今日も先代ゆかりの方々を考えながら車を運転しています。

まるで自分が「時空を旅しているような気分」になりますw
 
 
 
(尚、「創業65年史」の一部は弊社HP上にまもなくupさせていただきます。)
 
 

(注)・・・余談ながら、母の手帳の記録は私の中学入学の頃からあります。

手帳の一覧に「洋一、朝帰り」「洋一、オールドの件、面白く」(学生時代に先代宛に来た木箱に入ったサントリーオールドを玄関で受け取り、そのまま自転車に積み福知山駅から鉄道手荷物で東京の寄宿先に送ってしまい発覚。先代に酷く怒られる。。)「7:30 S(弟)帰 反省なし」(中学3年で家出、翌朝和知の友人宅より帰宅)とありました。

当家一級の歴史資料と思われます。

 
 
 
 
 

明けましておめでとうございます。

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(photograph by Akiko Morita)

明けましておめでとうございます。

輝かしい新年をお揃いでお迎えのことと存じます。

本年も宜しくお願い申し上げます。

 
 
元旦の福知山は快晴で朝方とても冷え込みました。

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のんびり雑煮を食べていましたら激しく雪が舞いはじめました。

あわてて1歳の幼児を連れて雪の中墓参りに行き、母宅に挨拶に行きました。

弟が

「ええ写真撮れたでw」

との事で貰ったのが上の写真です。
 
 
 
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夕刻には一宮神社の御神燈がくっきりと浮かび、幻想的な雪景色となりました。

今年一年のこの地域の息災と日本国の平和と繁栄を願わずにはおれません。

皆様のご多幸をお祈りいたします。

対話

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休日で午前中にお客様への葉書や月1回の社長通信を記す。

Amazonで届いていた「光の子供」エリックフォトリノ著を少し読みかける。

最近はkindleで電子書籍もダウンロードして読みかけるため、最後まで読まず読み忘れもある。

Amazonから「書評」を求めるメールをみて思い出すこともある。
 

少し飽きたため、手元においてある「風姿花伝・三道」世阿弥 竹本幹夫訳注をめくりだす。

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「(序)

それ、申楽延年のことわざ、その源を尋ぬるに、あるは仏在所より起り、あるは神代より伝ふといへども、時移 り、代隔たりぬれば、その風を学ぶ力およびがたし。ちかごろ万人のもてあそぶところは、推古天皇の御宇に、聖 徳太子、秦河勝におほせて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号 せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮って、この遊びのなかだちとせり。そののち、かの河勝の遠孫、この 芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり。よつて、和州・江州のともがら、両社の神事に従うこと、今に盛んなり。
 
 されば、古きを学び、新しきを賞するなかにも、全く風流をよこしまにすることなかれ。
 
 ただことばいやしからずして、すがた幽玄ならんを、うけたる達人とは申すべきか。まずこの道にいたらんと思 はんものは、非道を行ずべからず。ただし、歌道は風月延年の飾りなれば、もつともこれを用ふべし。
 およそ、若年よりこのかた、見聞きおよぶところの稽古の条々、大概注しおくところなり。

 一、好色、博奕・大酒、三の重戒、これ古人のおきてなり。
 一、稽古は強かれ、情識はなかれとなり。 」(風姿花伝「序」)

緊張感のある文体が読むものに襟をだださせる。

一つ一つ訳注を読みながら拾い読みを続ける。

言葉の一つ一つが現代の人間に問いかけてくる。

(申楽・・江戸時代まで能は申楽とよばれた。)
(和州・・大和国の別称、春日神社。江州・・近江国の別称、日吉ひえ神社。両州で申楽が盛んであった。)
(非道・・専門外のこと。)
(情識・・強情であること。頑固。)
 

「・・およそ 、家を守り、芸を重んずるによて、亡父の申しおきしことごとをも、心の底にさしはさみて、大概を録す るところ、世のそしりを忘れて、道のすたれんことを思ふによりて、全く他人の才学におよぼさんとにはあらず。 ただ、子孫の庭訓を残すのみなり。

風姿花伝条々  以上

干時応永七年、卯月十三日 従五位下左衛門大夫秦元清 書 」(風姿花伝 第三 問答条々(九))

「庭訓」・・・丁度弊社の「創業65年史」を年末に完成させましたが、これも社内への庭訓であろうかと思います。

(ていきん。家庭教育。孔子が庭で、子の鯉(り)に対して、詩経や礼記を学ばなければならないことを教えたという「論語」季氏の故事から。)

(秦元清・・世阿弥元清の本名)

この本を若年より時に応じて拾い読みをしてきましたが、数百年前の先人の言葉を受け取るのも幸せですね。