身体で覚える・・・

2019年12月1日

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昨日は土曜日で午後お客様廻りをする。三田市の山間部から篠山へ抜ける。

サイクリングの方🚴‍♀️もみられ、快晴であった為紅葉🍁が目に美しい。

篠山市ではご主人が農機具小屋におられました。正月用の黒豆の収穫でお忙しいらしい。
 
 
「株式会社ヨネダ創業70年史」が上梓しました。(本年9月が創業70周年になります。)

年末から順々に皆様にお届けさせていただこうと思っております。


ヨネダ社屋、グループ会社西部開発、西部開発社員(社史で使った写真です)
 
社史を作成している時に原稿の推敲の段階で幹部社員に確認してもらいました。

所用で北陸に向けて出発した折に古参の幹部社員からメールがありました。

「売上高のグラフ📊がおかしい気がします。」

電話をかけてみますと

「平成◯年は私の結婚した年で会社が売り上げは多かったが、内容は悪かったのを覚えております。」

私も当時は先代から引き継いだばかりでやる事なす事上手くいかず厳しい日々を鮮明に覚えておりました。

「△△・・・××・・・私はあの年の事は私の身体が覚えています!」

私もスイッチが入り、負けじと

「・・・僕の方が身体で覚えとるわ( *`ω´)」

みたいな軽い言い合いになりました。

・・・車を運転しながらそんな事で言い合いする自分に苦笑しました。

経理で確認して貰うと印刷会社が誤っていた事が判明しました。
 
 
閑話休題。

最近早い目に床に入る様にして夜半や早朝に楽しく本を読んでいます。

「掃除婦のための手引書」ルシア・ベルリン著、秀逸でした。24篇の短編ですがあっという間に読んでしましました。ユーモア、苦しみ、思いもよらない言い回し、驚きの直喩や比喩。寡作の作家であった為、殆ど日本語訳は出てないようです。3回の結婚と離婚を繰り返しながら四人の息子を育てました。アルコール依存症に苦しみながら高校教師、掃除婦、電話交換手、看護師を暦職。その後創作を始め同時代の作家に衝撃を与えたそうです。後年にはコロラド大学准教授になり創作を教える。
 
 

「フライジャル  弱さからの出発」松岡正剛著。<「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」は「強さ」よりもより深い。我々はなぜ脆くはなないものに惹かれるのか?「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象である。部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、時に全体をおびやかし、総体に抵抗する透明な微細力をもっている。>という著者が、薄弱、断片、あやうさ、曖昧、境界、異端など、従来かえりみられてこなかったfraigileな感覚に様々な側面から光をあて、「弱さ」のもつ新しい意味を探る。

著者は編集工学研究所所長でISIS編集学校長。化学から芸術に様々なジャンルに取り込み、研究成果を著作、映像、マルチメデイアに発表している。IT上で壮大なブックナビゲーション「千夜千冊」を展開されています。私も時折「千夜千冊」をのぞいています。そんな縁でこの本を手にとりました。

万巻の書を読む著者の視点に大いに興味をそそられました。
 
 

・・・女の子はまだ学校にいってなかったらしく、朝、寝ている私を起こしに来ることがあった。枕元に座った女の子に揺すられながら、だんだん目を覚まして行く、こういう快い感覚を私は生涯であまり味わったことがない。

大岡昇平「幼年」・・・

 
・・・蝶をつかまえる。鱗粉をこぼさないようにそっと手をすぼめ、蝶の翅がほたほたとはばたける程度のわずかな空間を手でつくる。蝶がはばたくと手がくすぐったい。けれども、それでその蝶は全き幽閉をくだされたのであり、しかも手の中には極小の柔らかい自由がほたほたとはためいている。
 この蝶と手の間にあるわずかにあるもの、そのおぼつかない感覚がフラジリテイなのである。・・・
 しかし、蝶や小鳥がフライジャルなのは、それが稚くいとけないものであるからで、それはこわれやすくおぼつかなくて、それゆえにたいせつにされるのではない。蝶や小鳥が手にくるみたくなるほど愛らしいからフライジャルだというわけではない。そこには「うすばかげろうのような危機感」がなくてはならない。
 しかし、ここが大事なところになるが、そこには愛着と半ばする「邪悪な哀切」といったものが関与する。愛着と裏切りは紙一重、慕情と邪険もの紙一重である。先の白秋の『青いとんぼ』の最終行にそれがあらわれる。
 
青いとんぼの眼を見れば
緑の、銀のエメロウド。
青いとんぼの薄き翅、
燈心草の穂に光る。

青いとんぼの飛びゆくは
魔法つかひの手練れかな。
青いとんぼを捕らふれば
女役者の肌ざはり

青いとんぼの綺麗さは
手に触るすら恐ろしく、
青いとんぼの落つきは
眼にねたましきまで憎々し。

青いとんぼをきりきりと
夏の雪駄で踏みつぶす。

「うすばかげろうのような危機感」の美は、白秋の詩の最終行できりきりと夏の雪駄で踏みつぶしたくなる危険にもなっている。このたいせつにしたいのに雪駄で踏みつぶしたくなるような二律背反の感覚が「邪悪な哀切」なのである。途中、青いとんぼが女役者の肌となっておりあたり、これは三島の玉三郎へのおもいにも通じていた・・・

「フライジャル 弱さからの出発」松岡正剛著

 

 

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