2017年2月17日

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立春も過ぎ、日差しも心なしか暖かい日が訪れるようになりました。

二十四節気では「立春」の次は「雨水」(雪から雨に変わる季節。二月十八日頃)を指すそうです。

 
 
先週の日曜日に家族で神鍋高原にスキーに行ってきました。

午後からの出発でしたが天候も何とかもち、楽しく遊んで帰路に就きました。

スキー場直前の峠は前日の積もった雪がパック状態になっており道路一面真っ白でした。

少しくだりかけますと車の渋滞が始まりました。

渋滞の原因は把握出来ませんでした。

15分ほど待ってますと前の子供連れの姫路ナンバーのジープから若いご主人がスコップをもってすたすたと前の方に歩いて行かれました。

廻りの車からも渋滞の原因を掌握しようと三々五々前方に見に行かれました。

10分ほどすると前の車のご主人がスコップを持って肩で息をしながら笑顔で上がってこられました。

どうやら前方でスタックし道路に横になってしまった車をご主人が掘り出されたようでした。

「・・・なんと段取りの良い人」とすこぶる感心しました。

「・・・世の中には頭のいい人がいるんだ。」と思いました。
 
 
 
 
 
その連想で最近読んだ「渋江抽斎」森鴎外著の主人公渋江抽斎の四番目の妻五百(いお)の事を思い出しました。
 
 

渋江抽斎は江戸時代天保の頃、弘前藩の城主津軽順承(つがるゆきつぐ)付きの医官であった。父の代から江戸神田に住み医師のかたわら考証家・書誌学者として当代並ぶもの無しと謳われた。心を潜めて古代の医書を読むことが好きで、自ら奉ずること極めて薄い人であった。書以外では客(かく、書生)を養うことが好きであり、好劇家で同好の士と平土間で観ることを好んだ。

当時は今のように医療が発達しておらず、抽斎の娶った妻や子供は次々と亡くなった。

五百(いお)は山内中兵衛の二女。中兵衛は神田で鉄物(かなもの)問屋を出し、詩文・書画を善くした。屋号は日野屋であった。抽斎の父充成(しげなり)と昵懇であった。

抽斎の身分は三番目の妻徳が亡くなり、山内氏五百(いお)が来ることになったころは、幕府の直参となっていた。交際は広くなる。費用も多くなる。五百は卒にその中に身を投じ、難局に当たらねばならなかった。五百があたかもその適材であったのは抽斎にとり幸いであった。
 
さて、五百の縁談の話。

兄栄次郎は二十九歳の五百に上野広小路の呉服店の通い番頭を婿に迎え、妹に日野屋を譲り自分は浜照(娶った元吉原の娼妓)を連れて隠居しようとしていた。

「学問のある夫が持ちたい。」と五百が拒絶。

「渋江さんの奥さんの亡くなったあとに自分を世話してくれまいか。」と両家と昵懇な医師石川貞白と頼み込む。

抽斎四十歳、五百二十九歳。

意図がわからず、貞白が問いただすと

「私は婿を取ってこの世帯を譲って貰いたくはありません。それよりか渋江さんの所に往って、あの方に日野屋を後見(うしろみ)して戴きたいと思います。」

貞白は五百の深慮遠謀に驚いた。もし五百が尋常の商人に嫁いだら、聖堂(湯島聖堂。孔子廟。幕府直轄の学問所)に学んだ兄栄次郎も姉の夫宗宇衛門も商人の嫁である五百の意志を軽んぜられるであろう。これに反して五百が抽斎の妻となると栄次郎も宗宇衛門も五百の前に項(うなじ)を屈せなくてはならない。この際、潔く生家を去って渋江氏に往き、しかも渋江氏の力を借りて、日野屋に監督を加えようとしたのであった。
 
 
抽斎はその後コレラで亡くなるが、その後継のグレートマザーとして五百は渋江家の要となり鴎外の時代へ続いていきます。

・・・・読みながら「なんと頭のいい人」と思った次第。
 
 
 森林太郎(鴎外)
 
 

・・・「下谷叢話」永井荷風著を読んで関連して「渋江抽斎」至りました。「下谷叢話」は永井荷風の母方の祖父鷲津毅堂(わしずきどう)とその親族である大沼沈山を囲む江戸・明治時代に至る漢詩檀の人々を記しています。幕末維新の激動の世の中に背を向け、折々に墨水(隅田川)に船を浮かべて観月の宴をはり或いは折にふれて旅に出、漢詩を詠む人々を描いています。荷風の目には変わり果てた明治・大正期から江戸期への幻視があるように思われます。

森鴎外は軍医総監まで上り詰めた医官でありました。一方文筆活動をするなか本の好事家(ヂレッタント)として江戸時代の武鑑(江戸時代の大名や江戸幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋などを書いた年鑑形式の紳士録。江戸に集まる武士と取引をする町人たちに重宝がられた。)を読み進める中で自分と同じく医官であり古書の考証家であった渋江抽斎に興味を持ち、末裔の人々に取材を重ねながら書き上げております。

「わたくしはまたこういう事も思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のような哲学方面の書をも読み歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。そのあとが頗(すこぶ)るわたしと相似ている。ただその相殊(あいこと)なる所は、古今時を異(こと)にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今大きい差別(しゃべつ)がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁なヂレッタンチスムの境界を脱することが出来ない。わたくしは抽斎を視て忸怩(じくじ)たらざるを得ない。
 抽斎はわたしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたしの比(たぐい)ではなかった。廻(はるか)にわたくしに優(まさ)った済勝(せいしょう)の具を有していた。抽斎はわたしの畏敬すべき人である。」渋江抽斎 森鴎外著より
 

荷風は文学上の絶対の師森鴎外の「渋江抽斎」を読み大きく感銘し、自分の母方の祖父鷲津毅堂とその周辺の人々について書くことを決意しております・・・
 

 
 
 
 
 

 
 

 

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